なぜアート鑑賞はぎこちないのか?
個人的に持っている仮説が、いろんな人と話すことでリアリティが増して来たので書いてみる。
美術館やギャラリーでアート作品を鑑賞したことがある人の多くが、ぎこちなさを感じたことがあるようだ。
事象はすごくシンプル。
感じていることを言葉で表しきれないという状態である。
理由もまたシンプルであることに気づいた。
名前がついていない感情がたくさんあるから、感じていることを表せないぎこちなさが生まれる。
たとえば、ぐるぐるとマーブルが描かれている絵が展示されていたとする。
なぜかすごく惹かれる。ずっと見てしまう。
そこに作家本人が現れて、素晴らしいということを伝えるために、形容詞を探す。
「このぐるぐるな感じが、とっても私に訴えかけてくるんです。素晴らしいと思います。」
ボキャブラリーが豊かな人はもっと別の言い方を編み出すかもしれないが、私の場合、だいたいがこんな感じの平易な表現になってしまう。
おそらくそんな感想は幾度も述べられているし、そんなことが伝えたいわけじゃない。
とても素晴らしいのに、「素晴らしい」という言葉を使った瞬間に、至極一般的な箱に入れてしまっている気がしてならない。
もっと作品について、作家や他の鑑賞者と話したいのに、逆に言葉に邪魔されているようなケースがある。
こういう状態を「ぎこちない」と呼んでいる。
アートを「買う」という行動によって、作家へのリスペクトを表現することもできるが、買うときにも「なぜ買いたいのか」をもっと語れたほうがいい。
しかし、前述の通り言葉というツールは感情のように複雑なことを表すには、とても限界が浅い。
では、鑑賞の現場で感情を別の方法で表現できないものか。
ここからが問いと実験の始まりだ。
人は無意識におびただしい量の情報をからだから発している。
体温、分泌されるフェロモンや汗、そして念のようなものもあるかもしれない。
こういった生体信号は大小の差こそあれ、感情に結びついているはずだから、コミュニケーション可能な情報に変える試みは悪くないアプローチな気がしている。
2018年11月に、視覚情報から影響を受けた脳波で作曲をするためのインタラクティブアート「NO-ON」を共同発表した時に、100名を超える体験者の脳から生み出される唯一無二な情報を目の当たりにして、言葉に頼らないコミュニケーションの可能性を強く感じている。
(詳しくはこちら)
感情が生まれる脳という器官からの情報を直接取り扱って、コミュニケーションに活かしていくとどんなことが起こるか。
鑑賞者の身体から発される情報を作家が受け取ることができるようになる。
そうなると、アートはいまよりも双方向性が強くなり、作家が鑑賞者から影響されることも大いに出てくるはずだ。
よりカオスで、よりぎこちなくなる可能性もあるが、鑑賞体験を一歩先に進めるための実験を進めていくので、こういった思考に関心のあるアーティストや鑑賞者はぜひお声かけいただきたい。