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「病は氣から」とはどのようなことか

わたしは、いわゆる医師免許を持った人ではありません。

その上で以下のはなしを聞いてくださればさいわいです。

さて、「病は氣から」と申しますね。

これは一体何なのでしょう。

まったくの私流の解釈なりますが、

体調が何となくすぐれないときってありますね。

PCRを受けたら陽性だったりして

そうであれば大変ですよね。

体調が悪いと、仕事が休みの日に夕方まで寝てたりするんじゃないでしょうか。

単なる疲労ならいいんですけど

身体の調子がおかしいなと思ったとき

これは絶対ではないですけど

トイレに普通に行けるかどうかを自問してみて欲しいです。

確かに調べてみれば、どっかが悪いのかもしれませんが

でも、トイレに普通に行けるんであれば

まだ、かなりその人の身体の状況はもしかするとですが、かなりマシな可能性もあります。

つまり、その人の調子の悪さは、いわゆる「病気」というもののせいというより「氣」のせいだという可能性もあるということです。

いや、それは、病院で精密検査を受ければ、すぐに深刻な異常が見つかる場合もあるので、これは絶対ではありません。

すぐにお医者さんに看てもらったほうがいい場合もあるでしょう。

ただ、トイレに普通に行ける肉体状況であれば、どのような病の兆候があろうと、まだその人の肉体はかなりマシな状況にあるとも言えるでしょう。

いや、もちろん、腰痛とかでも夜中にトイレに立つのはかなりキツイですよ。

それは私も経験あります。

五十肩みたいなことでも、起床時にかなり痛むことがあります(因みにこの五十肩のほとんどは、2年以内に症状が消えてなくなります。六十まで引っぱる人は皆無なので、だから五十肩というのです)

いや、はなしが逸れましたが

トイレに普通に行けるんであれば、あなたの身体は、多分(でしかないですが)まだかなりOKです。

そこで、問題なのは、その人の具体的肉体の異変(であることももちろんありますが)というより、その人の氣にあるとも考えられます

たとえば、特定の誰かに対する怒りが止められないときは、脳の血管に負担がかかるでしょう。

あんまり、真面目に重たく責任を感じて、プレッシャーばかりを感じている状況では、胃に負担がかかるでしょう。

身体の特定の部位が継続的に痛む、特に臓器の類が痛むときは、氣の持ち方が片寄りすぎていることが考えられます。

その片寄り方に応じた部位が痛むのです。

とは、言っても、何かしら継続的に関わるストレッサーの類が存在するのでしょうから、氣の持ちようですべてを解決するのはそんなに易しくはないかもしれません。

しかし、人生うまく行かないことが続いたり、挫折したりすると、地球上がすごく退屈な場所や何の希望もない場所に見えてくるでしょう

ただ、それも多くの場合、考え方の調整でどうにかなる場合もあります(ならない場合ももちろん沢山あります)

大体、人は、ある観念の奴隷であることが多いのです

結婚できなければ人生終わりだ

正社員になれなければ人生終わりだ

社畜のままでは人生終わりだ

1000万円、貯金できなければ老後は終わりだ

本を出せなければ人生終わりだ

その他

家を持てなければ

有名大学を出られなければ

ミュージシャンになれなければ

ホームレスに転落すれば

等々

沢山あります

うまく行けば素晴らしいでしょうけど

形勢不利になったり、挫折、失敗すると、これらの奴隷であることは仇になることもあります。

投稿のウケがよくなければ、人生終わりだというパターンもあります。

ここ半年くらいの自分はモロにこれで、

ウケが悪いと地球滅亡のように思えてきて、パワーもどんどん失われるのです。

パワーが失われると、さらにウケが悪くなり、そしてまた……
という負のループです

もちろん、持ち上げてくれないまわりを責めるわけには行きません

それでは、ジャイアンリサイタルになってしまいます。

わりと、ちょっとしたことで世界はすごく暗い場所に思えてくることもあるのです

しかしまた、投稿のウケが悪ければ、世界は終わりだ、というような片寄った世界観はいくらでも相対化できるでしょう

といいつつ、中々できない自分がいるのも確かですが(笑)

いずれにせよ、病んでいるのは特定の肉体の部署というより、その人の世界観だったり、「氣」であったりするのです

「氣」が病んでるままだと、肉体の病んだ箇所にいくらレーザー治療をしても、そんなに効果がないこともあります(もちろん病巣の一掃で気持ちが明るくなることもあるでしょう)

でも、そういうときに、無理やり「氣」を性急にポジティブに向けるのはむしろ逆効果の場合もあります。

ただ、多少調子が悪くとも、前に言った通り

トイレに普通に行けるんであれば、まだあなたの身体はかなりOKな場合も多いでしょう。

病気というのは

ある意味「わたしはOKでない」という気持ちの肉体的化身とも言えます

つまり、病んだ人に必要なのは「ユーアーOK!」なのです。

ただ、現実問題として、社会やまわりがあなたに「ユーアーOK!」と言ってくれることは少ないでしょう

そういうとき、自分で勝手に「アイムOK!」と唱えても
まわりの否定にかき消されるでしょう

ただ、そういうまわりや社会の、または自分自身の厳しすぎる基準はともかくとして、調子が悪いとき、トイレに普通にいければ、これは絶対ではありませんが、まだあなたの肉体はかなりOKな可能性もかなりあります。

これは非常に大事なことだと思うんです

投稿のウケが悪ければ世界は終わりと信じ込んでいるとき、ウケが悪ければ落ち込みます

もちろんまわりのせいにするのも限度があるでしょうし、失敗するでしょう

しかしそういうとき、投稿自体で起死回生するのはちょっと難しいことかもしれません。

ただ、多少調子が悪くとも、トイレに普通に行ければ、多分肉体はまだ全然OKな場合もあるので、

大事なのは、この「OK!」という感覚です

「OK!」という感覚の割合が標準レベルに戻るのが治癒です

つまり、必要なのは(OK!)なのです

もちろん、新聞を開けば、SNSを見てしまえば
たちまちOKではないものが沢山目に入って元の木阿弥でしょう

でも、トイレに普通に行ければ、もしかすると、あなたの身体はまだ全然OKかもしれません。

大事のは、この(OK)という感覚が増していくことです。

病は「氣」からというのは、このようなはなしだと解釈しています。

多分、今日を生きる人は背負い込みすぎているのかもしれません。

わたしはOKでないという「氣」をしょいすぎているのだと思います。

その落ち込みがせいぜい3時間とかならまだしも、あまりに長い時間続くと肉体的病変となって具体的に身体に現れる場合もあるのだと思います。

ただ、人が、今日の様な状況で「わたしはOKでない」という気分を背負ってしまうのは仕方ないにしても、トイレにフツーに行けるのであれば、それも軽視すべきではないのではないかと思い、このような文を書いた次第です。


御一読ありがとうございました。

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木月まこと
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