ほんとうにそれは「好き」か?
限定で無料公開の記事なので、いつでも読めないのだけれど、その間に読める時は読んでいる小池龍之介氏がcakesで連載している「やっかいな人を自分のお城に入れない方法 」。いつも賛同できるわけではないし、腑に落ちるでもない。
誰も嫌わない、誰も好まない生き方/侵略者モンスター【その3】
今回は「好き」エネルギーの恐ろしさについて書かれている。これは、うーんと唸った。
あなたの「好き」は本当に「好き」か?
それは「執着」ではないか?
というのは、意識して考えることは多くなっている。けれど今回、小池龍之介氏が書いている
その時その時に応じてあっさりとした優しさを向けてあげれば良いだけだというものなのです。
というくだりで、うーん…と考えた。全体も読んだ最初のうちは腑に落ちない。腑に落ちないがひっかかる。好きなこととかものとか人とかに、あっさりなんてできるか!?と。今回はご本人の例示を読むうちに「そういうことかな?」と思ったんだけれども…
確かに、だ。自分が「好き」「得意」などとしていることは、本当にそうなのか? と疑ってみるがいいと私は思った。自分が思っている好きなことや得意なことは、誰かの「好き」や「得意」に影響されたものが多い。それは、育った家庭環境や住んでいる地域、学校のカルチャー、付き合う友人やパートナーで左右されるということは納得できる。左右された上に手離せない・手離したくないことになることも多いね。そのうち、本当はそんなに好きじゃなかったな…(この場合、嫌いでもいいわけだ)とうすうす気づいたりもする。気づいても認めるのがめんどうになったり、しんどくてもその「好き」「得意」の看板を下ろせなくなると「執着」になっていると言ってもいいのだろうなと思う。
「好き」も「嫌い」も他者がいないと確立できないように思われる。宣言したり表明したり…けれど、そこがすでに影響下にあるのかもしれない。孤独な環境下で、誰もそのことを評価しない・ジャッジしない局面でもそう言い続けられるだろうか? 忘れずにいられるだろうか? 没頭できるだろうか? もし、そうなら確かに小池氏の言う「あっさりとした優しさを向けてあげれば良いだけ」ということになるような気がする。気にも留めないぐらいに空気のように、そうあることが常態であることを知っているのかもしれない。
そして、これはちょうど談捨離とか魔法の片づけにも通じるものだろう。「ときめかないものは捨てよう」は「執着を手離そう」であるから。いやいや、ときめくもんばっかりやで!めっちゃときめき続けてるし!!というものは捨てなくていいのだ(少なくとも私はそうしていて、たくさん捨てたけど全然モノは多い)。
ハッと思い当たるのが、長年何かニュースとか記事を見付けた時に○○さんが好きだったな、知らせてあげたい!とか、これの良さをわかる人がいないかなーと思う傾向が自分に強いこと。これは侵略されてるとも言えるが侵略してるとも言える。誰それが好きだから~とか、誰かれが来た時にないと困る~とものを積み上げることが、これに近いかもしれない。
私は「好き」「得意」みたいになったことが、他人の影響だったとしても、まずは新しい世界への扉が開かれたと考えるタチなので…生きていくスキルに役立つことも多いけれど、確かによけいしんどくなることもある。ただ、しんどさを感じたら「それはなんでそうなったんだっけ?どの程度だっけ?」と見直すのがいいだろう。見直す作業は確かに孤独を澄ませるし、その時に瞑想は大いに助けになる。
この連載のキモは「強力なエネルギーを持った人に遭遇してしまった時、侵略されないためにはどうするか」ということなので、さして困ったことのない人には必要がないだろう。ただ、おのれも侵略者になることがあり得るし、「好き」「嫌い」が激しくてしんどい時には一考に値すると思う。