Spinoza, Damasio
AI技術の進展に対する疑問をきっかけに感情や情動にスポットライトを当てる思想に興味を覚えるようになった。例えば、スピノザ、ベルクソン、そしてソーマティック・マーカー仮説を標榜するダマシオ。
スピノザによれば情動(affectus)は「外界からの刺激や身体内部の状態に影響された身体の状態変化」と定義される。そしてダマシオによれば情動は内外の刺激に呼応して生体を保存しようとする機構(ホメオスタシス)のセンサーの役目を担うものとして考えられる。ダマシオなどの脳神経生理学者によるとホメオスタシスの機能を担うのは脳のより古い部分であり呼吸や鼓動を司る脳幹や快苦や恐怖を司る扁桃体であり記憶を司る海馬や前頭前野と組み合わさって意識や人格を形成する。
感情や情動に対するスピノザやダマシオのこうした理解は極めて自然なものであり、キリスト教のように人類だけを特別扱いしない生物進化論にも合致する。
さて、ではスピノザやダマシオは理性についてはどのように考えるのか?
スピノザは理性については神=自然から与えられたものとして考えており、情動の定義が発生的進化論的に極めて分かりやすいのと比べるといささか頭越しの感を拭えない。
対してダマシオは理性を情動と脳の前頭前野の共同作業から生まれる複雑な操作の過程と捉えているようであり、これもいまいち切れ味が悪い。
古代から近代の思想家が理性をアプリオリ(生得的、先験的、超越的、論理的。。。)と捉えるか、神から与えられたものと捉えて来たのに対してダマシオの「デカルトの誤り」に於ける発生論的、神経生理学的、進化論的な説明はまだ増しだが、彼の情動に対する自然な説明に比べると食い足りない。
プラトンそしてデカルトやドイツ観念論以来西欧では観念や理性の脱身体化、外在化が進み、その極みがAIが自立して思考することが出来るとする今の状況な訳だが、これは本当の意味での人間の理性の実現と言えるだろうか。人間の理性(判断や意思決定)を身体性と切り離すのは間違いと言わざるを得ない。
スピノザの後継者としてのダマシオの情動や感情に対する考えは私にとっては西欧の他の思想家の考えより自然に受け入れられるものだが、彼がさらに推し進めて身体性と密接に結びついた理性の定義を深化してくれることを望む。
※ 勿論高度な数学や論理学そして理論物理のように身体性からかけ離れた領域での理性の働きを否定するつもりはない。私がフォーカスしているのは日常の判断や意思決定そして倫理の分野での理性の発生学的、進化論的、神経生理学的、脳神経学的定義だ。