『月獅』第3幕「迷宮」 第11章「禍の鎖」<全文>
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禍のはじまりは、十八歳の王太子アランのとつぜんの死だった。
レルム暦六百三十三年三月、二年前の早春だ。
冬眠からめざめたアナウサギの狩に出かけた王太子が馬もろとも崖から転落した。
まだ岩肌には根雪が残っていた。それが陽をあびて表面から透明にほどけ、ときに結晶の形を露わにしながら溶けていく。雪解け水で地盤がゆるんでいたのだろう。犬や馬が何頭も駆け抜けたのも災いした。雪山から羚羊が降りてきたのを犬が吠えたてた。アナウサギよりもずっと大きな獲物に皆がはやる。崖際を跳ねるように駆けのぼる羚羊を犬たちが列をなして追う。犬のあとを追って、アランの騎乗する白馬が駆けたはずみで崖が崩れ、馬の後ろ脚がとられて谷底に滑落した。背後を護っていた三騎の側近が急ぎ谷への隘路をたどったが、王太子は暴れる馬を御せず手綱を振り切られたのだろう、谷底の河原で後頭部を強打し、天を仰いでこと切れていた。
享年十八歳。将来を嘱望された王太子のあまりの早い死に皆が絶句した。それだけではない。葬列が殯の宮を出ると、側近の三名の若者たちが互いに刺し違えてあとを追ったのも人びとの嘆きを深くし、「流星の禍じゃ」とたちまち流言がひろがった。
アラン亡きあと立太子した三男ラムザもその半年後に、高熱から肺炎を患いあっけなく一週間で身罷った。世継ぎのたて続けの死に国中に暗雲がたれこめた。王家は呪われている、天卵の祟りではないかと。国王ウルと王妃ラサの嘆きは深く、ことに愛息ふたりを一年も経たぬうちに失った王妃は「アランもラムザも暗殺されたのじゃ」「王家に弓を引くものがいる」「妾を追い落とす気か」と疑心暗鬼となり、残された十歳の四男キリトに妄執するようになった。
国王ウルには他に、妾腹の十七歳の次男カイルと三人の姫宮がいる。一の姫オリが十六歳、二の姫カヤが十三歳、三の姫マナが九歳だ。カイルとカヤ姫は兄妹で、その母は貴嬪サユラ。オリ姫とマナ姫の母は、淑嬪アカナであった。
ラムザが亡くなって一年半。王太子はいまだ空位のままだ。
ラムザ亡きあと四男のキリトが立太子するものと誰もが思っていた。ところが、禍が末息子にふりかかることを恐れた王妃が、キリトの立太子をしぶった。だからといって、妾腹の第二王子カイルの立太子も許さなかった。
王妃ラサは隣国のトルティタン国第一皇女だった。トルティタンの皇帝ヌバクの皇妃アンはウルの妹だ。互いに婚姻を結ぶことで同盟関係を強固にしてきた。王妃の意向を無視することは同盟関係にひずみを生み外交問題に発展しかねない。国王ウルは王妃の気が鎮まるまでと立太子問題を放置した。
レルム・ハン国とトルティタン国にとっての脅威は北方騎馬民族のコーダ・ハン国と南の海洋国家セラーノ・ソル国だった。
ノリエンダ山脈の北には茫漠とした平原が広がっている。
緑豊かな平原ではない。雲は天蓋のように聳えるノリエンダ山にぶつかり山脈の南側に雨を降らすと乾ききった風となって山を越える。からっ風が吹き抜ける荒野には天からの落とし物のような奇岩が点在し、幹のいたるところから気根をぶら下げる灌木がぱらぱらと散在しているにすぎなかった。雨季にだけ緑の草原が広がり、命がいっせいに歓喜する。短い驟雨の季節が過ぎると、平原はまたしだいに乾いていく。枯れた芒の原が広がるころ、いずくにかさまよえる湖が現れる。どこに現れるのか、いくつ現れるのかはわからない。乾きでひび割れる原野に忽然と現れ、また忽然と大地の底に姿を消す。それを求めて遊牧民や毛ものたちがさまよう。
コーダ・ハン国の起源はそんな不毛の大地をさすらう流浪の民で、遊牧民や隊商を護衛することからはじまった。飢えをあがなうため糧を求めて侵略と略奪を繰り返した。人馬一体となった騎馬集団は、牙集団との異名をとり、またたくまに辺りを蹴散らし立国した。そうして水を求め南へ南へと版図を広げたのだ。水を追うゆえに機動力を優先し、都をもたなかった。皇鄭ですらバクという天幕で過ごし、さすらいの国として周囲を恐怖に陥れてきた。定住し土地を耕し生産するという考えがとぼしく、彼らの流儀によると、欲しいものは奪ってくるものなのだ。
二代前のジュリ・ハン鄭は、そんな国の在り方を変えた。
「蛮族として恐れられる時代は終わった、真に国力のある大国になる」と宣言し、広大な版図を統べるには定住が必要であり治水こそが国の要と灌漑事業に取り組んだ。雨季の激しい驟雨を地下に蓄え、国中に水路を張り巡らせる壮大な計画に着手した。国を挙げての事業はコーダ・ハン国を技術集団へと変貌させた。もともと槍や弓などの武器の鍛造技術を持っていた。そこへ灌漑技術をもつ職人を周辺国からさらってきたのだ。
それでも一年を通じて水を引けたのは、鄭都ハマリク周辺だけである。干上がった大地を潤すには圧倒的に水量が足りなかった。現皇鄭のチャラ・ハンはノリエンダ山脈の万年雪と雪解け水に目をつけた。同時に白の森の北に位置するノルテ村の鉱石も狙っていた。
白の森の北を守護するノルテ村は、急峻なノリエンダ山脈の山あいに広がる村だけに、わずかばかりの土地に狭い棚田を重ねてはいたが、ノリエンダの嶺にぶつかる風が夏は冷害をもたらし、冬は豪雪を降らせる。農耕に向かない土地柄だ。かわりにノリエンダ山には鉄や金、銀などさまざまな鉱脈が走っていた。たたら製鉄も盛んでノルテの「ヤマ」から採掘され精製される鉄や鉱石が、王国の繁栄を支えていた。
騎馬民族のコーダ・ハンにとって武器の材料となる鉄は喉から手が出るほど欲しい。
それだけではない。ノリエンダ山からはめずらしい鉱石が採掘されることもあった。たいていは装飾品としてもてはやされたが、なかには不思議な力を備え幻の石と呼ばれるものがあった。そのひとつが「アグア」と称する魔石だ。
アグアは龍が口にくわえる宝玉のかけらと云われ、こんこんと水をしたたらせる奇石と伝えられる。安置すると永遠に水が湧き、涸れぬ泉となるという。干上がることのない水源を求めるチャラ・ハン鄭に、ノリエンダ山脈の南からやってきた隊商の頭目が魔石アグアの伝説を披瀝し、ノルテ村にならあるやもしれませぬと耳打ちした。
チャラ・ハン鄭にとってノルテ村はなんとしても征服したい村となった。
ノルテ村を虎視眈々と狙っているのは、なにもコーダ・ハン国だけではない。
同盟国であるトルティタンですら、ひそかにノルテ村を狙っているとの噂が絶えない。それゆえ王妃もノルテ村に立ち入ることはできない。王妃だけではない。いずれ周辺国に嫁ぐ運命にある姫宮たちも入村が許されていなかった。ノルテ村の周囲はレルム・ハン国の兵士によって厳重すぎるくらい厳重に守られている。ノルテ村の南は白の森に接し、北にはノリエンダ山が聳える。白の森の東を流れるオビ川はエステ村へとさしかかる手前で二本に分かれる。その支流がノルテ村の東端を迂回して深い渓谷を刻んでいるのだが、ノルテ村への入り口はその谷にかかる橋一本であった。まさに陸の孤島である。
ノルテ村はレルム・ハン国にとって宝であるとともに、火種でもあった。
白の森の尖端にあるカーボ岬から遥か南へくだった海域に、大小の島が夜空の星のごとく無数に点在するシアック諸島がある。セラーノ・ソル国はこのあまたの島を統べる海洋国家だ。かつてあたりの海を荒らしていた海賊を祖とする。東西より流れ込む暖流と寒流は、ここで不規則に点在する大小無数の島にぶつかり複雑な渦を巻く。魔の海域として知られる海が彼らの庭で、北のアトラン大陸(レルム・ハン国はここにある)と南のホリゾン大陸のあいだに横たわる海洋のほぼ全域を掌握していた。そのため南北の大陸間の交易はすべてセラーノ・ソルを介することになる。彼らは大小さまざまな船を操るが、特異なのは水棲馬を飼いならしていることだろう。紡錘形の胴から細く長い首が伸び体躯は銀の鱗で覆われている。胴に鞍を置き、口に嵌めたハミから延びる手綱で操る。四脚から進化したひれは水流を流す無数の溝が刻まれていて、ひと掻きで数十メートルは進むといわれる。陸上の馬と大きさに差はないため小回りがきき俊敏であるだけでなく、潜水泳もできるため潜って敵船に近づき奇襲をかけるのを得意とする。水棲馬隊による奇襲は敵国に恐れられてきた。
また彼らの操るタジン船は小型だが機動力にすぐれていた。海底の地形も複雑なこの海域では、嵐でなくともあちこちで潮流が渦をなし大型船はそれらに巻き込まれ座礁しやすい。彼らの水先案内なしでは魔の海を通過することはかなわない。タジンは攻撃力にもすぐれていた。
「あははは、見ろ。目先の通行料を惜しむからあのようになるのだ」
セラーノ・ソルの関所を強行突破した大型船が水棲馬隊の猛追を振り切ろうとして渦潮に巻き込まれ、あっというまに小島の断崖に激突し破船したところだった。
シアック諸島の中ほどにもっとも大きなセル島がある。二枚貝が開いたような形をしているこの島にセラーノ・ソルの都がある。島の西の片割れに小高い山があり、その山頂に山城を築いていた。
一つに束ねた黒髪を潮風になびかせ、城の物見櫓で小柄な女が遠眼鏡をのぞいている。肌は陽に灼けて鞣し革のごとくつややかで、遠眼鏡をおろすと眼球の大きな目が現れた。鋭い光を放ち、島影をにらむ。
矢を盛った箙を背に武装している近衛兵が両側に控える。海洋国家セラーノ・ソルを率いる女王セリダだ。
セラーノ・ソルでは、代々女性が王位を継いできた。母なる海を守護するのが、女神セラーンであるからだった。女だからとなめてかかっては痛い目にあうというのがもっぱらの噂だ。なにしろ気性の荒い海の男どもを配下に御して君臨しているのだから。
女王セリダはレルム・ハン国の南東端にあるスール村に目をつけていた。レルム・ハンの主たる交易港はスール村と王都リンピアにある。リンピアは星夜見の塔からの見張りの目があるため、おかしな動きをみせれば即刻、開戦となるだろう。海洋民族である彼らは領土に対する執着は薄い。それよりも交易を有利に進め、富を得ることのほうに重きをおいていた。だから、レルム・ハンを征服しても意味がない。むしろ生かしてノルテ村の鉱石からあがる富を搾取したいだけだ。その足掛かりとして、スール村の商人たちを懐柔しようとしていた。
セリダは足下の海をながめていた遠眼鏡をはるか北へと向ける。洋上の火山が爆発したのか。狼煙のような朱がうすく雲間を縫って幾筋もあがっている。レルム・ハンはそのずっと北で、影すら見えない。そういえば、あのあたりに昔から「隠された島」と海の男どもが呼ぶ小島があったな。行きはあったのに帰りには忽然と姿を消し、別の航路で見かけるのだと。そんなばかなことがあるものか。北から錆色の雲が厚くなりはじめている。閃光が天の一角から短く、だが続けざまに走った。かなり遅れて微かな雷鳴がセリダの耳をかすめる。嵐が来るか。
「伝令じゃ。全船入り江に退避させよ。嵐が来るぞ」
合図のほら貝が島から島へと響きわたった。
ラザールが王に呼ばれたのは、「天は朱の海に漂う」との星夜見がなされてまもないころだった。王太子の空位はすでに二年近くになる。
通されたのは、謁見の間ではなく王の執務室だった。
「ラザール星司長をお連れいたしました」
部屋の中央には大理石の円卓があり、王はその上に並べられたジェムの駒を真剣な顔つきで動かしていた。大理石の円卓そのものがジェム盤になっているのだろう。ジェムは戦を模した棋盤ゲームで、通常は丸い盤上で二つの陣営が争う。対戦相手を四陣営まで増やすことができ、それだけ戦いも複雑になる。戦略を考えるのに良いとされ王侯貴族が興じた。ウル王のジェム好きは有名だ。ノルテ村で採れた色とりどりの輝石を細工したジェム駒が王宮に収められたと耳にしたことがある。スール村の豪商が特別にこしらえさせて献上し、商人は王室御用達の称号を得た。ラザールの入室を告げられても王は顔すらあげない。ベールで顔をおおった喪服姿の王妃が傍らのカウチに斜めに横たわり物憂げに盤を眺めていた。縦に長い格子窓からそそぐ午後の陽は弱く、部屋の空気はけだるく淀んでいた。
これが一国の執務室の光景かと、ラザールは目を疑った。
マホガニーの大きな執務机には国璽を待つ書類が山積みにされている。ジェムに興じるよりも、それらを裁可することのほうが先ではないのか。なぜ王妃がここにいるのか。謁見の広間に居並ぶことはあっても、玉座に華を添える飾りにすぎず、政治の実務を行う執務室で王妃を見かけたことなどついぞなかった。そもそも妃嬪は後宮で暮らし、表の政庁にお出ましになることなどない。
世継ぎを立て続けに失い、陛下は政への興味を失速されている。もともと強いカリスマ性も、王としての覇気も持ち合わせてはおられなかった。
ウル王が即位されたのは、御歳わずか十歳のみぎりだった。
父王のカムラ陛下は歴代の王のなかでもとりわけ勇猛果敢で知られ、常に戦の陣頭指揮をとった。若き王の勇姿に臣下はもとより民も熱狂した。
レルム・ハン国はけっして強国ではない。コーダ・ハン国やセラーノ・ソル国などの比ではなく、歴代の王たちはノルテ村が狙われれば応戦するにすぎなかった。
弱小国のレルム・ハンが独立を保つことができたのは、その地形による。レルム・ハン国はカーボ岬を頂点に東に大きく湾曲した逆三角形をしている。北の底辺には急峻なノリエンダ山脈が聳え、南はレルム海に面し、西には人を寄せつけぬ広大な白の森がある。ノリエンダ山脈の東端はレルム海に迫るように裾野を伸ばしているため、東の国境は鳥の喉笛ほど狭く、そこさえ守っておけば国は安泰であった。天然の要害に囲まれた稀有な国として栄え、温暖な気候は農耕に適し、神より賜りし土地と称されてきた。ノルテ村が襲われでもしない限り、レルム・ハン国から戦を仕掛けることはなかった。亀のように天然の甲羅のうちに首をすくめて閉じこもっておればよかったのだ。
ところが、血気盛んなカムラ王は防禦のみの軍事方針にいらだち異を唱えた。
「防戦一方ゆえになめられ、ちょろちょろと周辺国からノルテが狙われるのじゃ。こちらから蹴散らしてやろうぞ」
双頭の鷲の戦旗が各地ではためいた。
だが、長年平和を謳歌してきた軍隊は一朝一夕では如何ともしがたく、疾駆する騎乗の王を追ってわらわらと付いていくのが精いっぱいであった。
西隣のトルティタンとの戦乱のさなかだった。流れ矢が王に命中した。
矢傷は致命傷ではなかったが、雨季にはいったばかりで季節が悪かった。雨でぬかるんだ土壌に馬が脚をとられ姿勢を崩したところに矢が的中し、馬もろとも泥水に転倒した。泥にまみれたため矢傷から邪が入り傷口が化膿し高熱にあえいだ。酒ぐらいでは邪気をはらうことはできない。驟雨の続く戦場の天幕では手のほどこしようがなかった。王は枕頭にはべる副官のウロボス将軍に影武者を立て停戦交渉に入るよう指示するとあっけなく身罷った。
王の死は秘匿され、実力伯仲の消耗戦のなか停戦交渉がすすめられた。王の遺命どおりトルティタンのラサ第一皇女をウル王太子の妃として迎え、ウル王太子の妹のアン王女がトルティタン皇太子の皇太子妃に、末永く両国は強固な同盟関係を結ぶことが決定した。ていのいい人質交換である。
王の影武者は署名すると立ちあがり、トルティタン皇帝ムフルと握手を交わした。
ウル王太子十歳、ラサ皇女八歳の結婚の儀は、あまりの幼さにままごとのかわいらしさであったという。結婚の宴は三日三晩続き、その翌日に突如カムラ王の崩御が公表され、ウルが即位した。トルティタン皇帝ムフルは地団太を踏んで悔しがったが、すでに最愛の姫を嫁がせたあとであり反撃をしかけてくることはなかった。ノルテ村から採掘される鉱石の一割を融通するとの密約が水面下で交わされたとも噂されている。
幼い王と王妃は雛人形であり、実権は長らく母である王太后とその外戚であるルグリス侯爵家が握ってきた。また、トルティタンとの同盟で尽力したウロボス将軍を王太后が重用し、カムラ王が各地に派遣していた兵の撤退指揮を一任した。
対外的な王はウルであり、表面的な実権を握っているのは王太后だが、王太后に執政は荷が重く、裏で太后の兄カール・ルグリス侯爵とウロボス将軍が操っているという複雑な権力構造となっていた。指揮権の複雑化はひずみを生み、さまざまな思惑の温床となる。
ウル王は傀儡であることに素直であった。というよりも、傀儡の意味すらおわかりではなかっただろう。十歳の子どもにとって周りの大人たちの命に従うはごくしぜんなことであり、そこに疑問など起ころうはずもなかった。王太后が五年前に薨去され、ようやくウル王が政を執られるようになった。十歳で即位されてから実に二十五年が経っていた。
もともとのご気質もあったが、傀儡であることに甘んじてこられたゆえにか、なにごともご自身で決断されることがない。臣下の議論が収束するところに従う。平時であれば、皆の意見に平等に耳を傾けることはよき資質ともいえたが。あれは鷹揚というのではなく凡庸というのだ、と陰で嗤うものもいる。
それでも陛下なりに政に真摯に向き合おうとしてこられたと、星夜見のご進講を通じラザールは思っていた。
ところが、アラン殿下に続きラムザ殿下まで亡くされてからは、政への興味を失われている。子を亡くした嘆きの深さ、心にぽかりと空いた昏い虚にのまれそうになるお気持ちは、我が子を亡くしているラザールには痛いほどわかる。しかし、むごいようだが、陛下は親である前に国を統べる王である。切って捨てねばならぬ感情があると諭す側近はおらぬのか。ジェム盤を片付け、各地の窮状を伝えるものはおらぬのか。
跪拝しながらラザールは眉をひそめる。
「陛下、ラザール殿が控えております。ジェムはそのくらいにして、妾の願いを伝えてたもれ」
「ああ、そうであったな」
王妃にうながされようやく王はラザールに目を向けた。
「そなたを呼んだのは他でもない、キリトの師傅を引き受けてはくれまいか」
「キリト殿下には、ソン太師がお誕生以来、守り役を務めておられるではありませんか」
「うむ、そうではあるのだがな」
王はちらっと王妃をうかがう。
そういうことか。ラザールはすべてを悟った。
二日前のことであった。星夜見を終え、朝焼けの半透明に靄った光のなか暁の門へと続く回廊を歩んでいたラザールに大股で迫る足音が耳に届いた。
「ラザール殿、星夜見からのお帰りですかな」
追いかけてくる声に振り返って驚いた。背後に立っていたのはヨシム准将だったからだ。これまでヨシムが親しげに話しかけてきたことも、ラザールから声をかけたこともなかった。陸軍の准将と星夜見士との間に接点などない。王宮に何か異変かと、みがまえた。
「ラザール殿とはかねてより胸襟を開いて話したいと思っており申した。拙者はいささか腕に覚えはあっても、お恥ずかしいことに、とんと無学でござる。星の巡りについてご教示願いたい。出入りの商人から年代物のサリュ酒を手に入れ申した。拙宅にて一献、いかがですかな」
ヨシムが左手で盃を傾けるしぐさをする。
「お招き痛み入ります。ですが、当方には宵闇を恐れる者がおります」
「おお、そうでありましたな。優秀な養子を迎えられたと聞き及んでござる」
「恐れ入ります。かような訳で、待つ者がおりますゆえ失礼つかまつります」
ラザールは丁重に辞儀をして門を出た。
ヨシムはその背を残念そうに見送る。
ノルムの丘から見下ろす城下は、暁の光に裾から目覚めはじめていた。
あれを誰かに見られていたのか。
ヨシム准将はカイル派と目されている。
王太子の空位が長くなるにつれ、不穏な空気が蠢きはじめていた。
ラムザ殿下の一連の葬送の儀を終え服喪が明けたころから、川が二筋に分かれるように四男のキリト派と妾腹の次男カイル派に二分され権力争いの火種が飛び火しはじめた。早々と態度を鮮明にするものもなかにはいたが、どちらかというと皆、形勢を見極めようと日和見を決めこみながらも水面下で画策と駆け引きと奔走を繰り広げていた。腹のさぐりあい、といっていい。王の態度がはっきりしないことがそれぞれの思惑に輪をかけた。
キリト殿下が立太子するものと誰もが思っていた。それを王妃が渋ったことで本来ならばとうの昔に消えていたはずの埋火が燻りだした。それはウル王とラサ王妃の婚姻の契機となったトルティタンとの和平交渉にまでさかのぼる埋火だ。
カムラ王の遺命により、両国の第一皇女と一の姫宮が双方の国に輿入れすることでかつてない同盟関係が結ばれた。ただの人質交換とみえた停戦交渉は、その後のレルム・ハン国に戦略的な平穏をもたらした。
カムラ王が自らの亡き後のレルム・ハン国の行く末を予測してのことであったのならば、実にみごとな深慮遠謀であったと、ラザールはうなる。カムラ王を失ったことが国の禍のはじまりでなかったかと、王宮の凋落を目の当たりにするにつけ思うのだ。
幼き王にとって、また幼き王を擁立せざるを得ない国にとって、強力な後ろ盾があるかないかは国の存亡にかかわる。トルティタンとの二重婚姻関係は、ウル王とレルム・ハン国にその後ろ盾を与えた。それだけではない。北のコーダ・ハン国と南のセラーノ・ソル国の脅威が増すにつれ両国の同盟の重要性も増した。トルティタンがコーダ・ハン国と戦っているすきをついてセラーノ・ソルの海軍団が奇襲してきても、レルム・ハン国が応戦することができる。これまでは一国で北と南に二分せざるをえなかった戦力を一方に集中させることができるのだ。この効果は絶大であった。ここ二十数年の両国の安泰は、同盟のおかげで保たれてきた。そのことは誰もが認めるところだ。
一方で、王統の純血はどうなるのか、という声はラサ王妃との婚姻時よりささやかれてきた。ラサ妃の王子たちには異国の血がまじっている。レルム・ハン国の王位の純血が保てないばかりか、やがてトルティタンに併合されてしまうのではないか。頑迷なる保守派のあいだでた泡沫のごとく現れては消え、消えては現れささやかれ続けてきた懸念である。その声を鎮めるべく後宮に迎えられたのが貴嬪のサユラ妃と淑嬪のアカナ妃だ。サユラ妃はギンズバーグ侯爵の、アカナ妃はロタンダ伯爵の姫であり、この国を代表する二家から選ばれた。サユラ妃とアカナ妃の後宮への入内が内定した折、はじめてウル王は王太后に抗議したときく。王と王妃はままごとの雛飾りのごとく、夫婦というよりも兄妹のように成長なされた。金の籠に入れられた鑑賞用の二羽の小鳥たち。大人の都合のいいようにもてあそばれる心細さと寂しさをお二人はわけあってきた。それゆえ「ラサだけでよい」と。だがその希いは権力の均衡の前では歯牙にもかけられなかった。
「陛下はジェムがお好きであろう。ジェムでも持ち駒が多いほど有利。そういうこととお考え遊ばされるがよい」母である王太后は嫣然と諭した。
ほどなくしてカイル王子と三人の姫宮が、ラサ妃の王子たちの隙間を縫うように次々にご誕生になられたが、この頃からではなかろうか、ウル王がジェムにのめり込まれるようになられたのは。性欲すらも政の贄とせねばならぬ。お飾りとして玉座に居ることの哀しさはいかばかりであったろう。
ラザールは執務室の中央に据えられた大理石のジェム盤をちらりと見やる。
飼い殺しという言葉が脳裡をかすめた。
玉座を降りることはできないが権力も与えられない。ウル陛下は即位以来、飼い殺しの王であった。政の頂点に君臨しながら、政から最も遠かった。
カルム王が戦場で斃れられた折、ルグリス侯爵もウロボス将軍もカルム王の遺命に従い難局を乗り切るのに身命をいとわず尽くされた。その働きによりレルム・ハン国の国威は保たれた。それはまごうことなき事実である。
だが権力という魔物に一度捕り憑かれると人はその美酒に酔いしれる。
五年前に王太后が薨去され王権はようやくウル陛下のものとなったはずであった。むろんルグリス侯爵もウロボス将軍もとうに第一線を退いていたが、老獪な彼らの息のかかった重臣たちに太刀打ちするには、ウル王は圧倒的に経験も胆力も知略も足りなかった。綿菓子にくるまれ目と耳を閉ざしてきた陛下にも非はある。たとえ傀儡に甘んじられてきたとしても、それを逆手にとって民の暮らしに目を向け、政の真髄について考えることはできたはずだ。諦めることを覚えた者は、生きる意志すら投げ出したといっていい。
ウル王とはまた別の意味で、カイル殿下もキリト殿下も飼い殺しのお立場であられた。アラン王太子がご健在であった昨春まで、おふた方とも忘れられた王子であった。違いがあるとすれば、目立たぬように生きよと諭されてきたか、末っ子ゆえにのびのびと自由に育ってきたかぐらいであろう。
いったんは鎮まっていた王統の純血の議論。それが再燃している、カイル派の大義名分として。不意に表舞台に引きずり出され、カイル王子ご自身がもっとも困惑されているのではなかろうか。
アラン殿下やラムザ王子はよく王宮の広場で剣の鍛錬に励まれていた。歳の順に従えばカイル王子のほうがラムザ王子よりも二歳上であるのだから、武術の鍛錬を共になさってもよいはずだ。だが、そこにカイル王子の姿を見かけたことはない。一度だけ広場を囲む回廊の端でお見かけしたことがある。あれはまだ十二、三歳のころであったか。画帖をかかえ柱にもたれて熱心に衛兵の鍛錬のようすをスケッチされていた。
「みごとな腕前ですな。カイル殿下は画がお好きですか」
画帖に落ちた人影にちらっと目をやり、うつむいたまま応える。
「好きかどうかはわからぬ。筋肉の動きを観察するのはおもしろい」
風に散らされそうな声だった。ラザールには目もくれず衛兵をまねて腕を動かしていた。王子の存在に気づいたのだろう。大柄な兵が声をかける。
「カイル殿下も剣の鍛錬をなさりますか」
一瞬、王子の目に光が宿ったのをラザールは見た。が、はたと気づいたように、次の瞬間にはまつげを伏せて首を振る。
「われにかまわず訓練を続けてくれ。邪魔をして悪かった」
そう云いおいて、王子は画帖をかかえ去って行った。
武術は苦手でお嫌いなのかと思っていたが、そうではない。妾腹というお立場ゆえに、剣だけでなく多くのことを諦めてこられたのだろう。共も連れずに去る薄い背を目で追いながら鳩尾が軋んだ日のことを、ラザールは思い出した。
息をひそめて生きてきたものを今さら権力の汚泥に引きずりだそうとするのか。ヨシム准将の筋骨隆々たる体躯とカイル殿下の線の細い神経質そうなまなざしを思い起こす。王族とは権力の亡者たちに翻弄されジェムの駒となることを強いられる運命なのだろうか。
貴重な宝玉のきらめきが虚しい。大理石のジェム盤の上では輝石でできた駒が転がっている。
おそらくヨシム准将に誘われていたことを耳に入れられたのだろう。
「むろん、引き受けてくれるであろうの」
王妃が嫋やかにほほ笑む。
ラザールがカイル派にくみする前に先手を打ってきたのだ。引き受けるということは、キリト派つまり王妃派であることを表明することになる。
もしや、とラザールの胸にひとつの考えが灯った。
キリト王子の立太子を引き延ばしておられるのは、立太子までに不穏分子をあぶり出そうとのお考えではあるまいか。
黒いベールに顔を隠した王妃に目を向ける。あの幼くあどけなかった皇女はいつのまにこれほどのしたたかさを身につけたのか。母は子のために靭くなるという。ラザールは瞑目する。カイル殿下の寂しげな顔が脳裡をかすめる。一国の存亡と、一王子の将来とを等しく天秤にかけることはできまい。我もまた王子をジェムの駒として扱うのか。ラザールは奥歯を噛みしめる。立ってしまった波を鎮めることはかなわぬか。ならば、レルム・ハン国がこの大波にのまれて沈まぬように力を尽くすほかない。
天卵は今どこにあるのか。もう孵ったのだろうか。天卵の子がこの混沌とした淀みを統べる要となるのであれば、禍玉まがたまとなる前に見つけださねばなるまい。
熟れた桃は地に落ちるしかないのだろうか。
第3幕「迷宮」 第11章「禍の鎖」
<完>
第12章「忘れられた王子」に続く。