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路線バスで会いましょう。


今日も哲也はハンドルを握る。
一日に8往復しかない路線バスは、お年寄りたちのだいじな足だ。

今日は水曜日だから、美代ばあちゃんの病院の日。次のバス停で待ってる。そういえば、真知子さんが買い物に行くのも水曜日だったな。ふたりで、また、嫁の話でもしてるのだろう。

運転席のわずかに開けた窓から流れる新緑の風が心地いい。アクセルを踏みたくなるが、おっと、いけない、いけない。法定速度を守って安全運転だ。

就活に全敗して、知り合いのつてで何とかありついたのがバスの運転手だった。もちろん初めは腰かけのつもりだった。スーツを着て、海外出張をこなして。哲也が将来に抱いていたのは、ステレオタイプの陽炎のような夢。大学を卒業すればそんな未来が待っていると、何の根拠もなく信じていた。だから、制服に身を押し込んで運転席に座ったとき、こんなはずじゃなかったという違和感しかなかった。
いつもふて腐れた顔でハンドルを握っていた。そんな哲也に、お年寄りたちは、乗るときにも「ありがとう」、降りるときにも「ありがとね」と、にっこりと微笑みながら声をかける。

ある水曜日のことだ。その日は、バス停には美代ばあちゃんしかいなかった。いつもは真知子さんが手を貸して、美代ばあちゃんをバスに乗せる。
杖をついて足もとのおぼつかない美代ばあちゃんは、バスのステップに足を乗せられない。哲也はあわててエンジンを切り、運転席から降りて、杖を預かり、両脇を支えながら席に座らせた。「杖はここに置くね」という哲也の手を、ばあちゃんは両手でまぁるく包んで何度も何度も撫でながら「ありがとね。ありがとね」と言う。皺だらけのはずなのに、その手はやわらかくて温かかった。

それからだ。
バス停に着くたびに、哲也はエンジンを切って運転席から降り、お年寄りたちの乗り降りに手を貸すようになった。すると、お客さんたちのことがよく見えるようになった。トシさんは月曜に駅前に囲碁をしに行く。原田さんは第3金曜が定期検査の日。正子さんと佐紀さんは、いつも一緒で仲良しだ。
お年寄りたちには、それぞれお気に入りの席があることもわかった。

決まった路線を、決められた時刻どおりにバスを運転する。それはとても退屈で、そこに何のやりがいも見いだせずにいた。

けれども。
一人ひとりの顔が見えるようになると、いろんな人の生活を乗せて走っていることが、掌でつかめるようになった。1往復で40分ちょっとだけど。そのわずかな時間の背後にお客さんの人数分の生活がつながっている。そんなふうに思えるようになった。何をキレイごとを言ってるんだって自分でも思う。でも、それが哲也がようやく見つけた実感だった。
それに何より、お年寄りたちは皆、総じておせっかいなのだ。「芋ふかしたから」とか「漬物つけたから」といって、スーパーの袋に入ったおすそ分けをいつも無理やり押し付けられる。最初は受け取っていいものかどうかがわからず、事務所に戻って所長に袋を見せながら話すと、ポンと背中を叩かれて「おお、受け取っとけ。佐々木君も、認められた証拠だ」と言われた。
何をどう認められたのか、全然わからなかったけれど。でも、ささくれだっていた気持ちに風が吹くような気がして、胸がくすぐったかった。


哲也がひそかに心のなかで「スミレさん」と呼んでいる、その女性に気づいたのは、いつものように美代ばあちゃんがバスから降りるのに手を貸していたときだ。

うす紫の裾が広がったオーバーブラウスに、細みのホワイトジーンズを履いていた。胸もとにはフリルが幾重にも重なっていて、歩くたびにひらひら揺れて。スミレの花の精かと思った。だから、スミレさん。本名は知らない。

ふわりと。ほんとうに、ふわりと。まるで蝶が風にまぎれて乗り込んできたようだった。スミレさんはあたりをきょろきょろ見まわしてから、左側の一番前の席に座った。そこはタイヤの上になるため、座席の足もとが高い。そのため常連のお年寄りが座ることはない。でも、その席だと、運転席からはバックミラー越しに彼女を見ることができた。

スミレさんがバスを利用するのは、お年寄りのように決まった曜日というわけではなかった。もちろん、哲也にもシフトがあって、この路線だけを担当しているわけではない。でも、スミレさんがいつもの席に座ると、それだけで体が運転席から5センチぐらい浮きあがるような気がする。だから、ついついチェックしてしまうのだ。火曜と金曜が多いが、月曜や木曜の日もある。「市立病院前」から乗って「朝霧岬」で下車する。

スミレさんが乗っている日は、一日中、しあわせな気分になれた。
お客さんが下車するときには「ご乗車ありがとうございました」と言うのだけれど。スミレさんが降りるときには、緊張しすぎて、いつも声が1オクターブ高くなり裏返ってしまう。スミレさんはにっこり微笑んで「ありがとうございます」と言って降りていく。その後ろ姿をぼーっと眺める。

哲也は、ようやく自分にも春が来たと思った。スミレ色の春が。

その日は非番だった。
久しぶりに朝霧岬までバイクを走らせた。カワサキのNinjaの緑のボディは、新緑によく映える。学生時代にどうしても欲しくて、コツコツとアルバイトをして手に入れた唯一の宝物だ。遠出をすることも考えたが、目覚めると、もう昼近くだったのと、夕方から雨の予報が出ていたので、近場の朝霧岬にランチを食べに行くことにしたのだ。

岬に向って続くなだらかな緑の丘にカフェ『うみねこ』はある。テラスのついたログハウスで、田舎町には不似合いなほどおしゃれだ。雑誌に載ったこともあり、休日になると他県からやって来る人もいてにぎわう。岬といっても、ここは内海なので風もそれほどきつくないから、テラス席も人気だ。

でも、平日はたいてい空いている。
できた当時は、ばあちゃんたちも、こぞって出かけたらしい。ところが。メニューに並んでいたのは、クロックムッシュとか、アヒージョとか、海の幸のペスカトーレとか。よくわからない横文字の料理ばかりだった。
「なんの料理かわかんねぇし。まずくはねぇけど、味噌汁のほうが、よっぽどええわ」だそうだ。とにかく老人の口には合わなかった。
だから、平日の昼は空いていた。

丸太を切り出した階段をあがって、哲也は木の扉を押す。
天井は高く吹き抜けで、切妻屋根の天窓から春のやわらかな陽光が射しこんでいる。井桁に組んだ梁にはドライフラワーがぶら下げられている。海側の壁の中央にテラスへの扉があり、それを挟んで両側に大きな窓があった。窓の前にカウンター式の細長いテーブルが造りつけられていて、一つの窓につき4席ずつ、扉をはさんで全部で8席。窓から海を眺めながら食事ができる。他にテーブル席が屋内に3つ、テラスにも3つ置かれていた。

先客は2組だけだった。
奥の窓の前のカウンターにカップルが1組。外のテラスに、入園前ぐらいの子ども2人とそのママたちがいた。もうとっくに食事は済んでいるのだろう。子どもは男の子と女の子で、テラスを走り回っていた。哲也は、手前の窓辺のカウンターに座った。すぐに、女性のウエイトレスが盆に水のグラスを乗せ、メニューを持ってきた。確かに流行りのカタカナ呪文料理が並んでいる。まあ、これでは、ばあちゃんたちにはわかんねぇよな。ランチは、パスタランチとキッシュランチの2種類。起きたのが遅かったから、まだあまりお腹がすいていない。菜の花とツナのキッシュランチを頼んだ。大きな丸い皿に、少し大ぶりにカットされたキッシュとサラダ、それにバゲットが彩りよく盛られ、えんどう豆のポタージュスープが付いていた。

食後のコーヒーを飲みながら、哲也は光がはしゃぐ紺碧の海を眺めていた。

テラスで走り回っていた女の子が突然、店内への扉を開けた。追いかけて来る男の子を振り返り、よそ見をしながら店に入ろうとして、テラスとの段差につまずき転んだ。むくっと立ち上がろうとして、哲也と目が合った。すると一拍置いて、派手な泣き声があがった。哲也がどうすればいいのかわからず狼狽えていると、カップルの女性がすっと席を立って駆けつけ、女の子を抱え起こした。「大丈夫?」と優しくたずねる。母親もあわてて駆けつけた。店員も心配そうにうかがう。けど、女の子は泣き止まない。

哲也はその女性の横顔を見て、心臓が1メートルぐらい跳ね上がった。
スミレさんだ!

えっ、なんで。哲也は動揺で機能停止しようとする頭を必死で動かす。

まだ、べそべそと泣きじゃくっている女の子の前に、スミレさんと一緒にいた男性がスケッチブックを手に膝をついた。
「動物は好き?」
女の子はぐしゃぐしゃの顔で、コクリとうなずく。
「何が好きかな」
「う‥ざぎ」声が涙でくぐもる。
「何色が好き?」
「ビンク」

男は胸のポケットいっぱいに突っ込んでいる色鉛筆の中からピンクを抜き取ると、それでスケッチブックにさらさらと何かを描きはじめた。

「はい」
さっと描きあげると、スケッチブックから切り離して、女の子に渡した。
「ピンクのうさぎ。ママ、ピンクのうさぎさんだよ!見て!」
女の子の涙はぴたっと止まって、代わりに笑顔がほころんでいる。画用紙を高らかに持ち上げてぐるりと見せて回る。ラフなタッチだったが、ピンクのピーター・ラビットが描かれている。めくった紙の下には、美しいブルーに輝く海の絵が描かれているのがちらりと見えた。

スミレさんが彼と顔を見合わせて、ふふっと、ほほ笑む。
男は肩口までの髪を後ろで一つに結わえていた。その髪型で、ようやく哲也は思い出した。

左の一番前に座るスミレさんは、「朝霧岬」に着くと一番に降車する。哲也はたいていその背をぼーっと眺めているのだが、しばらくすると髪を襟足で一つに結わえた男性が、いつも哲也の視界を横切ってバスを降りることを思い出した。カーキ色のよれよれのハーフコートを羽織っていて、ポケットが不自然にふくれ、迷彩色のキャンバスバッグを斜めがけにしていた。

目の前の彼がその男性だったことに気づいてはじめて、哲也はおよそのことが吞み込めた。

ああ、そうか。スミレさんは、彼と会うためにバスに乗っていたんだ。好きな人に会うためにお洒落をして。バスに乗ると、まず、きょろきょろするのは、彼を探していたからだ。

ここで彼とランチを食べて、男は海の絵を描いていたのだ。
でも、どうしてバスでは同じ席に並んで座らないのだろう。別々に降りるのだろう。バスを降りてからも一緒に歩いている姿を見かけたことはない。テラス席の方が海がよく見えるだろうに、どうして店内の隅っこで描いているのだろう。スミレさんはどうして、市立病院前から乗車するのだろう。
いろんな「なぜ」が押し寄せる。

スミレさんと彼の間にどんな秘密があって、なぜこっそりと会わなければいけないのかはわからない。でも、そんなことは、たいしたことではない。スミレさんがそのひと時を、心待ちにして大切にしていることはわかるから。

「そろそろバスの時間だな。行こうか」
男がスミレさんをうながし、スミレさんが先に店を出た。男はテーブルに広げた画材を片付け、カーキ色のコートを羽織ると勘定を済ませて店を後にした。

哲也はその後ろ姿を、まだ、ふわふわとした頭のまま見送った。
――俺もそろそろ行くか。

哲也の恋、いや恋になる前の淡い想いは、一瞬でしゃぼん玉のように弾けて消えてしまったけれど。でも。
そのことに、自分がたいしてショックを受けていないことに気づいた。
いや、むしろそれどころか。どういうわけか、胸の奥の方からじわじわと、ほんのりと暖かく、胸をトクトクと波打たせる何かが広がっていくのだ。

ばあちゃんたちの生活を乗せて走っている、その実感にやりがいを見出しはじめていた。でも、それだけじゃなかったんだ。スミレさんの秘密の恋も乗せて走っていた。

――路線バス、やるじゃん。最高じゃん。
緑のNinjaのボディを撫でてエンジンをかけながら、哲也は海に向かって叫びたい衝動に駆られた。

ああ、俺もいつか彼女とここで海を眺めながらランチができるといいな。
まあ、とうぶんは昭和の乙女たちの世話で手一杯だけど。

潮騒をBGMに、岬を下るワインディングロードを風を切って走る。新緑がまぶしい。


(The End)


この作品は、旅野そよかぜ@旅と歴史と東南アジア小説さんの以下の企画に参加しています。2作目です。旅野さん、毎月、楽しくて想像力を刺激される企画をありがとうございます。

#画像で創作3月分
#短編小説 #掌編小説











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deko
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