小説『ポルカ・ドットで、こんにちは』Dot:3
凛子は古いレコード盤に針を落とす。
じり、じり、じりと針が空気とビニール盤を微妙にこするためらい音を引き摺りながら、シュトラウスの『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の旋律が流れる。ときどき針が飛んで音がジャンプするのは、ティルのいたずらかしら。針は気まぐれに、軽やかに、つま先で跳ねて着地して、また跳ねる。揶揄うみたいに。誘っては逃げる蝶のように。若くて美しくしたたかな乙女のように。
ライラックの甘い香りが窓から風にのって舞いこみ、淹れたばかりのアールグレイにフレーバーをそえる。皇妃エリザベート。シシィと呼ばれた彼女が愛したスミレの砂糖漬けもいいけれど。それよりもずっとかぐわしい春のけはいがする。そう気づいて、開けたボンボニエールの蓋を閉める。
ライラックはフランス語でリラと呼ぶことを思い出し、凛子はティーカップを置いて、ラフマニノフの『リラの花』のレコードを探す。遅い春をよろこぶ美しいパッセージ。楽譜にはしごがかかるように、音符のつらなりが主旋律のあいまを急に上り下りする。そういえば、竪琴もリラという。楽器のリラはヘルメスが作ったと云われるけど。ヘルメスもいたずら好きの神様だからティルと気が合うかも。夢想があちこちに気ままに飛び跳ねるのは、ティルのせい? それとも春のしわざ?
キリもティルみたい。さっき後ろ姿が見えたと思ったのに。
凛子はひとつ大きくため息をつくと、レコード盤をラフマニノフに替え、バルコニーに出て胸いっぱいに春をかぐ。
赤紫の花束をいだくライラックの並木が市庁舎へと続くブールバールを飾って優美な香を街じゅうにふりまいている。今週末は花祭ね。ライラックのブーケを髪に挿した女たちがドレスの裾をひるがえして踊る。屋台が軒をつらね、風船が青天に舞う。春の訪れをよろこぶ祭。
今日は朝から潮騒がよく聞こえる。
音は波だと、白い波が列をなす海原を見つめながら凛子は思いだす。空気の水面に落ちた音の滴が、波紋を描き、たゆたいながら進む。あの波頭のように。どこかでなにかがふるえて生まれた音の波が鼓膜をまたふるわせる。「隻手の声」という禅問答があるけれど。片手でも、ゆらせばかすかな音の波はうまれている。
音と音の重なりが美しい旋律となる音楽は、無数の波の複雑なハルモニア。音楽は宇宙のハーモニーだといったのは、ピタゴラスだったわね。音程の美しい整数比に気づいて音階を発見したのだった。ケプラーも惑星の動きに音階をつけようとした。だけど。宇宙は空気がないから無音の世界だと、彼らが知ったらどう思うのかしら。
原子を形づくる電子のふるまいも波と、キリがいってた。世界は波でできている、何もかもが。マグカップも、岩も、自動車も、植物も、テーブルも、水も、書物も、人も。きっちりと形があるものも、その内部はゆれている。眠りも波。α波とβ波が脳をゆらす揺りかごとなって、太古の海へのまどろみに誘う。命は原初の海からはじまって、夜ごとその古い記憶へと還っていく。夢が新しい記憶を整理してくれるのにまかせて。
海風が凛子の髪をなびかせる。
竪琴のような葉ずれをかきならして。
『リラの花』が最終章の技巧的なパッセージを繰り返し、レコードの針があがった。
キリはシエスタには帰ってくるかしら。
(to be continued)
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