『オールド・クロック・カフェ』4杯め「キソウテンガイを探して」(1)
その店は、東大路から八坂の塔へと続く坂道の途中を右に折れた細い路地にある。古い民家を必要最低限だけ改装したような店で、入り口の格子戸はいつも開いていた。両脇の板塀の足元は竹矢来で覆われていて、格子戸の向こうには猫の額ほどの前庭があり、つくばいに浮かぶ玉椿があざやかだ。格子戸の前に木製の椅子が置かれ、メニューをいくつか書いた緑の黒板が立て掛けられていなければ、そこをカフェと気づく人はいないだろう。
そのメニューが変わっていて、黒板には、こんなふうに書かれている。
なぜメニューに時刻がついているのかはわからない。そこにどんな秘密があって、何を意味しているのかも。ときどき、この風変わりな黒板メニューに目を止めて、開け放たれた格子戸から中を訝し気に覗きこむ人がいる。
いらっしゃいませ。ようこそ、オールド・クロック・カフェへ。
あなたが、今日のお客様です。
* * *Fourth Cup of Time Coffee* * *
今朝はことのほか冷えると思ったら、軒に細い氷柱がぶら下がっていた。剣先からぽたりぽたりと滴を垂らし、朝の光を反射して、あたりの空気がさんざめく。
きれいだな、と桂子はつま先立ちで顔を近づける。
そのままにしておきたかったけれど、滴がお客さまにかかっては、と箒の柄で払い落とす。傍らのつくばいに張った氷を取り除いていると紅椿が一輪ぽとりと着水して、思わず小さく拍手した。
落ちてなお天を見あげる椿が、桂子は好きだ。
かじかんだ手をこすり合わせながら店に入ると、二台のだるまストーブに火をいれる。ストーブは入り口すぐのカウンター脇に一つと、三つ並んだテーブル席に等しくぬくもりが届くよう、中央のテーブルを少し後ろの壁に寄せて空いたスペースに一台置いている。ケトルに湯を沸かし、椅子の背に一枚ずつ厚めのブランケットをかけてまわる。古い町家だから、朝一番の店内は底冷えがする。でも、この凛と張った冷気が静かにじわじわとほどけていく時間がいい。髪を高く団子にまとめて無防備な首筋をすきま風になでられ、桂子は生成りのタートルネックを首いっぱいまで引きあげる。屋内が暖まるにつれ、通り庭に面した窓ガラスがほんのりと白く曇りはじめる。店内の壁を所せましと覆いつくしている32台もの柱時計たちが、今日も勝手気ままに時を刻んでいる。
たぶん、もうすぐ泰郎さんがやって来る。
つぶやいた、そのとき、からからと格子戸が音をたててすべった。
「桂ちゃん、おはようさん。今日は、また一段とさぶいな」
首に千鳥格子のマフラーをぎゅっと結び、グレーのダウンジャケットにモスグリーンのカーゴパンツ姿の泰郎が足音を響かせながら入ってきた。さすがに、こう寒いと作務衣にクロックスの定番姿ではない。
「寒くなると、お父さんのかっこうがちょっとだけマシになるんよね」と娘の瑠璃ちゃんはいう。「しょせんは裏起毛のパンツやけどね。あれでも、いちおう芸術家の端くれやのになぁ」とため息をついていたのを思い出し、ストーブで手を温めている泰郎の背を眺めながら、くすっと笑みがこぼれる。瑠璃ちゃんは桂子にとって姉みたいな存在で、去年の六月に結婚した。
「泰郎さん、いつもので、いい?」
「ああ。厚切りトーストにバターたっぷりな」
「玉子は、どうする?」
「せやな、今日はスクランブルにしてんか」
手が温まったのだろう、泰郎がカウンターに腰かける。
桂子は湯気を漂わせるガラスのカップを、泰郎の前に置く。白い半透明のグラスは、ところどころ気泡が浮いていて、それが景色になっている。
「お、これは、俺のこさえたグラスやな」
泰郎は近くの茶わん坂で工房を営んでいるガラス工芸作家だ。
「柚子茶なの。体があったまると思う」
「おおきに、いただくわ」
泰郎は柚子茶をひと口すすって、新聞を広げる。
こぽこぽとサイフォンのつぶやく声と、店の壁を覆いつくしている柱時計たちが時を刻む音だけが響く。祖父が店をやっていたころから、音楽は流さない。「時計が時の音色を奏でてくれとるんやさかい、音楽はいらん」が祖父の持論だった。桂子もそれを守っている。
「おっちゃん、おったぁ」
小さな男の子がほっぺたをまっ赤に上気させ、格子戸を勢いよくあけて駆けこんで来た。静寂がパンとはじけ、たちまち活気が店に広がる。時計まで、ボーンボーンと気ままにはしゃいだ時を打つ。
「お、ひろ君やないか」
泰郎が新聞を畳んで立ち上がる。泰郎の広げた両手に男の子が飛びつく。
「もう、ひろ君、走らないでって言ったでしょ」
女性が肩で息をしながら後を追って入ってくると、格子戸を閉めて向き直る。ボブカットの髪が乱れて、口の端に斜めに貼りついている。
「ひろ君、由真さん、いらっしゃい」
桂子がカウンター越しに声をかける。
「桂ちゃん、俺のコーヒーもあっちのテーブルに運んでんか」
泰郎が大樹を抱っこしたまま、テーブル席に向かう。
祇園祭のころ、茨城からバイクでやってきた男性がいた。
松尾晴樹と名乗った彼の元恋人が由真さん。由真は妊娠していることを告げずに晴樹と別れ、京都に帰って大樹を産んだ。自分に子どもがいることを晴樹が知ったのも、我が子とはじめて会ったのも、昨夏の祇園祭だった。大樹は四歳になっていた。春から親子三人で茨城で暮らすと聞いている。
「それで、いつ、茨城に行くんや」
泰郎が大樹を膝に乗せたまま尋ねる。
「三月の中頃に。なるべく早くと思ってるんですけど。」
由真がおっとりと話す。
「じゃあ、じきやな」
「ひろ君、パパと暮らすの楽しみか」
「うん!」満面の笑みで大樹が頭をそらして、泰郎を見あげる。
「ひろ君、ココア熱いから気をつけてね」
と言いながら、桂子は大樹の前にココアを置き、通り庭側の壁にかかっている長刀鉾の柱時計に目をやる。
祇園祭の宵山の朝だった。
晴樹は祇園祭の長刀鉾をかたどった珍しい形の柱時計に選ばれて「時のコーヒー」を飲んだ。
「時のコーヒー」は、時計に気に入られた者だけが飲むことのできる特別なコーヒーだ。飲むと眠りに落ち、忘れていた過去の映像を見る。祖父によると「時計が、時のはざまに置いてきた忘れものに気づかせてくれる」らしい。桂子じしんは時計に選ばれたことがないので、真偽のほどはわからない。でも、桂子がカフェを継いでからこれまでに四人のお客さんが「時のコーヒー」を飲んだが、皆、眠りから覚めると過去の忘れものを思い出していた。
あそこにいる常連の泰郎さんも、そのうちの一人だ。
瑠璃ちゃんの結婚前に「時のコーヒー」を飲んで、幼かった瑠璃ちゃんとの約束を思い出し、この世でたった一つの美しいガラスのネックレスをこしらえて、花嫁の瑠璃ちゃんの胸を飾った。
あれは、きれいやったなぁ、と桂子はうっとりする。
松尾晴樹は東京駅で由真と別れたシーンを見たそうだ。
それが、いったん切れてしまった晴樹と由真の糸を縒りあわせた。大樹と結びつけた。
カウンター越しに大樹と由真、泰郎を眺めながら、感慨にふけっていると、また、からからと音を立てて格子戸が開いた。
「いらっしゃいませ」顔を向けると、瑠璃ちゃんが立っていた。
「お父さん、まだ、おるの。もう、店開ける時間やで」
ほんまに、もう。と瑠璃はぶつぶつ言いながら、ペールグレーのコートを脱いでハンガーに架ける。その後ろから、もう一人、同じくらいの年齢の女性が入ってきて、店内の柱時計を見回し「うわぁ」と声をあげる。
「ひろ君、こわいお姉ちゃんが来たから、おっちゃん帰るわ」
泰郎が膝から大樹を抱えおろして告げる。
「ひろ、おっちゃんに会いに来たのに。いばらきに行ったら、もう、会えんようになるって、ママがいうから。きょうは、おっちゃんと遊ぼうと思っとったんやで」
大樹がくるりと泰郎の方に向き直って訴える。
「ほんなら、おっちゃんの店に来るか?」
「うん! 行く!」
大樹の顔がぱあっと輝く。
「ちょっ、ひろ君。待って。泰郎さんはこれからお仕事なんやから」
由真が慌てて、もう、駆け出しそうな大樹をつかまえる。
「たいして客も来ぉへんから、かまへんで」
「でも‥。ご迷惑では」
由真が大樹を押さえながら上目遣いで泰郎を見る。
泰郎が大樹を抱きあげる。
「ほな、行こか。桂ちゃん、またな」
「瑠璃、頼まれてたグラスできてるから、いつでも取りに来い」
からからから。泰郎が格子戸を開ける。
ボーンボーン。時計たちが、いっせいに鳴りだした。
大樹が泰郎に抱かれながら、時計たちに「バイバーイ、まったねー」と手をふる。
(to be continued)
晴樹と由真と大樹の物語は、こちらから、どうぞ。
泰郎と瑠璃の物語は、こちらから、どうぞ。
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