小説『虹の振り子』03
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第1章:翔子ーフライト03
この国には勉強をしに来たのだからと。はじめは頑なにあらがっていた翔子だったが、ひとりで異国の地にいる寂しさがあったことは否めない。
その冬一番の冷え込みになった朝、部屋のヒーターが故障していることに気づいた。イギリスの冬は寒い。セーターを重ね着しマフラーを巻いて布団にくるまったが、それでも、古い安アパートの窓のすき間から容赦なく侵入してくる冷気に、体はガタガタと震えた。翔子の育った京都も、冬になると雪が積もることもあったが、そうそう氷点下にはならない。寒さの質がちがった。
棘のような冷気がしんしんと細胞を蝕んでいく気がした。体が凍えるにつれ、寂寥が胸をつらぬく。助けを求めに出かければよいとわかっていても、動く気力もわかなかった。
ベッドの上で膝を抱え布団を頭からかぶって、昔読んだ絵本の『雪の女王』を思い出していた。女王の氷の宮殿の頁をうっとりと何時間も眺めていたこともあった。絵本の中の遠い国の絵空事だからこそ美しいと思えたのだ。そういえば、フィッツジェラルドの短編『氷の宮殿』で、主人公のサリー・キャロルは氷の迷宮で迷子になっていたけれど、きっと今の私よりも、もっとずっと寒くて心細かったでしょうね。助け出されたとき、サリーは気が狂ったように「家に帰る」と叫んで、フィアンセの家のある凍てつく北部から生まれ育った太陽の光の降りそそぐ南部ジョージアへと帰って行ったのだっけ。ああ、その気持ちがよくわかる。
そう思った、ちょうどそのとき、電話のベルが鳴った。当時はまだ携帯電話がなかったから、ダイヤル式の電話はベッドと反対側の壁際のライティングデスクの上だ。今は、地球の果てよりも遠く思えた。何度かけたたましいコールを繰り返して切れた。ほっとしたのもつかの間、また、無音の部屋にコール音が鳴きわめきだし、いっこうに静まらない。30コールほど鳴って、止んだ。だが、またすぐに鳴りだした。段々、インターバルの間隔が短くなっていく。日本で何かあったのだろうか。残してきた両親のことが気になった。次に電話がなったら出よう、そう思って身構えていたのに、ぴたりと鳴らなくなった。無音は時間まで止めてしまうのだろうか。いっこうに時計の針が進まないように思えた。時刻は朝の7時半を少し過ぎたところだ。日本との時差は9時間だから、日本は午後4時半過ぎ。母なら家にいるだろう。
ベッドの下をさぐって、スリッパを探した。
部屋の中でも土足というのが、日本人として、どうにもなじめない。だから、部屋を決めたときに、まず取り掛かったのは床を水拭きしてラグを敷くことだった。入口のドアの前に下履き用のスペースを作ったけれど、ジャンでも時どきそこで靴を脱ぐのを忘れるから、誰かが訪ねてくると、翔子はいつもドア前で身構えてスリッパに履き替えるようお願いしなければならない。たいていは、「オー、ジャパニーズ・スタイル!」と喜んでくれるから、いいけれど。
スリッパに素足をのせると、一瞬、その冷たさに身震いした。
その時だった。
ドン、ドン、ドドドドン。ガチャガチャガチャ。
アパートの扉が壊れるんじゃないかと思うほど激しく叩かれ、ドアノブがもげるほど忙しなく回される。強盗か。翔子は寒さだけでなく恐怖に震え、身構えた。体が足の先から硬直して動かない。
「ショーコ! ショーコ!」
ドンドン、ガチャガチャガチャ。
ジャンだ。気づいた瞬間、糸が切れた。両のまなじりが決壊し、涙が幾重にも筋となり、止まらない。
ガチャリ。
ジャンが靴のまま駆け寄り、ベッドに腰かけたまま、声を立てずに涙を流す翔子をきつく抱きしめた。ジャンの体温が冷え切った翔子を包む。
それが決定打になった。ジャンに強く勧められて、というよりも半ば強引に押し切られて、ジャンが暮らしていたシェアハウスに引っ越した。でも、後から考えれば、翔子も一人に耐えられなくなっていたのだと思う。
もちろん正式に結婚したし、日本から両親を招いてイギリスの小さな教会で式も挙げた。だが、翔子の意識のなかでは、今もまだ、この同棲がずっと続いているような感覚だ。
じぶんでも気づかないほど硬く凍りついていた心を溶かしたのは、ジャンだった。
「だから、言ったじゃないか。運命だったんだって」
(to be continued)
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