小説『ポルカ・ドットで、こんにちは』Dot:6
昼の2時をまわったら、坂を下ってベンじいのパン屋の前を通り過ぎ、港の突堤に行ってみるといい。仕事が一段落したベンじいが、岸壁でペンキの剥げた朱色のボラードに腰かけて、パイプをくゆらせながら海を眺めているはずだ。
テンはベンじいの話が聞きたくて、犬のジップと競いながらブールバールを駆け下りる。潮風がテンのくせ毛をからかい、ジップの鼻先をかすめる。
ベンじいがドリトル先生だったらどんなによかっただろう、とテンはいつも思う。
図書室で『ドリトル先生航海記』に出会った日をテンは忘れない。
これはぼくのための本だと思った。助手のトーマス・スタビンズはぼくで、先生といっしょに冒険の航海に出かけるから、オウムとアヒルとサルと犬を飼わなければいけないと主張して、母にため息をつかせた。飼ってもらえたのは犬だけだったけど。もちろん雑種でジップと名づけた。
でも、いいんだ。
ベンじいの話も十分おもしろいし、ジップは(ドリトル先生のジップと同じで)世界一賢い犬だから。ぼくの足もとでうずくまって眠ったふりをしてるけどさ。ときどき瞼をもちあげ、ベンじいの話を聞きながらカモメたちの噂話に耳をそばだてて何かを推理してるんだ、たぶんね。
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
市庁舎の時計塔の鐘が空気をふるわせ、音の波が岸壁まで押し寄せる。
「世界でいちばん有名な時計の名前を知っとるか?」
ベンじいが、にやにやしながら尋ねる。テンは首をふる。
「ビッグ・ベンさ」
ベンじいが拳で胸を叩きながら誇らしげな顔をする。
ロンドンのウエストミンスター寺院の時計塔の名前なんだって。それなら、ぼくも写真で見たことがあるよ。
ヘンデルの『メサイア』のアリアの音色で時をつげるんだぞ、とベンじいが言う。
「ほれ、キーン、コーン、カーン、コーンていう学校のチャイム。あれだ」
「チャイムはクラッシックの曲だったの!」
テンはびっくりして声が裏返る。
ジップはそれに驚いて身を低くして吠える。
「わはははは」
ベンじいが赤銅色の顔を太陽に向け、さも愉快そうに笑う。カモメがいっせいに飛びたつ。
「ロンドンには『クレオパトラの針』っちゅう、でっかい日時計もある」
エジプトにあったオベリスクってもんでな。太陽神の神殿の前に2本が対で建てられとったそうだ。もう1本はニューヨークのセントラルパークにあるんだけどな。クレオパトラとはなぁんの関係もないんだ、これが。
「わははは」と、またベンじいは何がおかしいのか空を見あげて笑う。
笑い声が波を追い駆ける。
歴史の謎なんて、謎のまま楽しめばいいのさ、とパイプをふかす。
「時計の発達は、船のおかげさ」
ベンじいは、港に係留している貨物船に目を細める。
大航海時代の話だ。果てしなく広がる大海原で、船がどこにいるか。それがわかれば、海難事故も減る。命がけの航海ともおさらばだ。
「地図で場所はどうやって決める?」
「えっ、緯度と‥‥経度?」
そうだ。緯度はな、太陽や北極星の位置で簡単にわかる。だが、経度が難問でな。スペイン、イギリス、オランダ‥‥。各国が競って報奨金までかけたくらいさ。ガリレオ、ニュートン、ハレ―、それにライプニッツ。名前くらい聞いたことがあるだろ。あのころの天才たちが、こぞって挑戦したんだぞ。嵐の海でも、灼熱の赤道を航海しようとも、狂うことなく時を刻む時計が必要だったんじゃ。
「だれが、成功したの?」
「みんな失敗さ」わはははは、とまたベンじいが高らかに笑う。
でな、なんとハリソンっていうイギリスの大工が精確なマリンクロノメーターを発明したんじゃよ。職人が天才を負かした。実に愉快じゃないか。
岸壁を叩く波と、ベンじいの笑い声が共鳴しあってはじける。
答えは、追求するものの手のうちにあるのさ。
車のクラクションが鳴る。
驚いて振り返ると、黒っぽい緑のコンバーチブルの助手席でトロワが手を振っている。
「おーい、テン。遺跡の発掘を見に行かないか。マダムが連れて行ってくれるって」
後部座席でナナが帽子を押さえている。
マダム凛子は潮風と格闘しながら、白地に黒のポルカ・ドットのスカーフを頭に巻き直していた。
「キリがたぶんそこにいると思うの」
太陽がマダムの黒くて大きなサングラスに反射してまぶしい。
ジップが助走をつけて助手席にジャンプする。
風はきょうも、いたずら好きだ。
(to be continued)