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掌小説「彼岸花ゆれて」#5 帰らぬ人

これまでの話は、こちらから、どうぞ。
(登場人物)主人公:柚
       母 :絹
       妹 :葵
       父 :幸三


 縁側から出された柩は野辺の送りへの道をゆっくりと進む。
 目の前には紀見峠が高い陰となって聳えている。峠の向こうは紀州である。一行は九十九折にゆるゆると登っていく旧高野街道を南へと歩んでいた。少し距離をおいた左手の低いところを峠に源をもつ天見川が、街道と同じ曲線を描きながら流れている。右手には山の勾配にあわせて石垣を積んだ民家や段々畑が点々と続く。
 道の端や山裾でぽつぽつと彼岸花がゆれている。

 柚が生まれてからずっと慣れ親しんできた風景である。どの家の隣が誰の家で、どんぐりを採りに行くならどこが一番で、春になれば蕨の芽吹く場所も、野苺の群生する藪も、蛍の飛び交う沢も、猪の通る道も全部そらんじている。それなのに、初めて見る景色のようにどこかよそよそしく見えるのはどうしてなのだろう。いつもと同じ初秋の風景がそこにあるというのに、いつもと同じであるということが、柚にはなんだか冷たく思われるのである。無視され、突き放されたような気分になるのである。柚たちを襲った哀しみは、柚たち家族だけのものであると告げられているようでたまらなかった。


 あの晩、母はこの同じ道を天見駅へと急いだのだった。
 家は天見駅と千早口駅のほぼ真ん中の、どちらに行くにも不便なところにある。あの暴風雨のなか、坂を下ればよい千早口ではなく、ゆるやかではあるが登りになっている天見へと絹が向かったのは、そちらをいつも利用していたからだろうか、それともそこに夫がいると思ったからだろうか。
 

 天見駅へ信号の倒壊を知らせたところで、絹の消息はわからなくなっていた。柱時計が十一時を打ったあたりから、母の帰りが遅すぎることが柚を脅えさせていた。この嵐だもの、駅で足止めを食っているにちがいないと自分で自分に言い聞かせるのだが、台風の恐怖と不安とで、柚はふとんには入ったものの眠ることができず、がたっと物音がするたびに母が戻ったかと飛び起きた。
 が、それは雨戸にぶつかる石であったり、軒先を転がる植木鉢だったり、どこらからか飛んできた瓦の音だったりして柚を気落ちさせた。あれほどの嵐の夜だというのに、分を刻む柱時計の音が耳についてしようがなかった。
 
 翌朝早く、静かに戸を叩く音がした。
「かあさん!」
 柚は高く叫ぶと、安堵とよろこびで顔がぱあっと明るくなっていくのが自分でもわかった。
「待って、今、いま、開けるからね」
 はすかいに渡したつっかえ棒をはずすのも、隙間に差し込んであった厚紙を抜くのも、もどかしかった。引き戸を開けると、玄関脇の柘の木や軒先や地面に残った水滴に光が乱反射してまぶしく、思わず細めた目に映ったのは、母ではなく父だった。

「おとうちゃん」
「かあさんが、おれへんのか。裏の畑にでも行っとるんか。どないしたんや」

 畳みかけるように父に尋ねられて柚は、全身の血がさっと凝固するのを感じた。昨夜来、胸から振り払い振り払いしてきた黒い不安が当たってしまったことを直感したのである。瘧に罹ったように体が小刻みに震えはじめ、戸口の柱に縋りつくのがやっとだったが、絹が夕べの八時ごろに線路の信号が倒れているのを知らせに駅まで台風のなか出かけて行き、まだ戻っていないのだと話した。
 父は皆まで聞かずに踵を返し、残された柚はずるずると戸口の柱に縋りついたまましゃがみこんだ。震えは止まらず、がたがたと戸を鳴らし、いっそう激しく柚を揺さぶった。

 気づいたときには、上がり框に腰かけて、慌ただしく出入りしている村の人たちを見るともなしに眺めていた。隣に葵がいつやって来たのかも知らなかった。

 村に一件だけある旅館の息子の隆吉にいやんは、やって来るなり柚と葵を見かけると、
「なんや、しんきくさい顔してえ。こんだけ村のもん集まっとるんや。おばさんは、おれらがちゃんと見つけたる。元気だせえ」
 と肩を叩いて笑わせてくれたが、

「えらいこっちゃ。旗やんとこの山が崩れとる」
と誰かが玄関口で叫ぶと、一座は静まりかえった。
皆の顔に緊張が走り、聞くが早いかわれ先にと駆け出して行った。

 梅雨時からこっちの大雨でゆるんでいた西の山が崩れ、土砂は国道から下の田畑を覆い、天見川までなだれこんでいるとのことだった。
 絹は崩れた山に呑まれたにちがいなかった。橋が流されているところもあれば、泥水が浸水している家も幾棟かあり、昨夜の台風の激しさがひととおりでなかったことをうかがわせる。台風が通り過ぎ、空はすっかり晴れ上がっているが、村中いたるところをもみくちゃにされていた。あっちでもこっちでも助けの手を求められていたが、「絹さんを助けるんが先や」と、多くの手が絹の救助にさかれた。
 村の消防団が中心になって倒れた木を除け、土砂を掘り起こしての作業は夕刻になっても続けられ、夜半になってようやく切り上げられたが、鼻緒の切れたぞうりが片方出てきただけで、絹を助け出すことはおろか見つけることもできなかった。
 川は所どころで濁ったとぐろを巻きながら、泥を吐き出し、押し出し、流そうと懸命に轟音を立てている。

「こんだけ探して見つからんちゅうことは、川に流されたんかもしれん。明日は川じゃ。川を浚うぞ」
「こないに流れが速いと、だいぶ下まで行っとるかもしれんな」

 あくる日は朝早くから、千早口の駅を拠点に川の上と下との二手にわかれて探索が再開された。

 不安のあまり熱を出している葵を放っていくわけにもいかず、柚は枕辺で立ったり座ったりしながら、片方だけ見つかったぞうりを胸に抱いて、思いつくかぎりの神仏の名を唱えていた。
 日暮れになってようやく、千早口よりもずっと下の三日市町との境に近い河原で見つかったとの知らせが飛び込んでくると、止める声の脇をすり抜けて、柚は走り出していた。どこをどう走ったのか覚えていない。

 毎年秋の市の合同運動会に村を代表して走るほどの駿足をもつ柚だったが、焦る気持ちに足がついてこず、途中、蹴つまずいて倒れ、起きては転び、全身から流れる冷たい汗と泥と涙でぐしょぐしょになりながら、ただ、かあさん、かあさんと喘ぎながら走った。手の中のぞうりは握りしめられて、きりきりと湾曲していた。

 河原には大きな人垣ができていた。黒地に赤の消防団の半纏がぐるりと輪を作って囲っているのが遠目でもわかった。

 あそこかと思うと足がわなわなと震え、耳がきーんと鳴った。大声で指示する人声であたりはごったがえしているというのに、その瞬間から、柚には何ひとつ聞こえなかった。水中を泳いでいるように、一切の音が耳に入ってこない。まわりの風景も白く消え、柚には人垣しか見えていなかった。一息に駆け寄り、がむしゃらに搔きわけ、前に出ようとすると、

「だめだ、見ちゃいかん。見なさんな。見んほうが、ええ」
後ろから太くて強い腕に抱きとめられて、ようやく周囲のざわめきが柚の耳に蘇った。

 身をよじってもがいたが、つきあげてくる嗚咽で喉はもごもごするばかりで、筵に巻かれ戸板に寝かせられた母が目の前を通り過ぎていくと、ぐにゃりと力が抜けそのまま河原にへたりこんでしまった。
 立てるかと尋ねられたが、立つことなどできなかったし立とうとも思わなかった。誰かの背におぶわれて戻った。

 母を奪った台風は、北の方では宇治川の堤も決壊させたとラジオで知った。その日、新聞記者が持っていった、たった一枚きりの母の写真は、とうとう戻って来なかった。


 柩に土がかけはじめられると、葵が姉にしがみついて絞りあげるような声をあげた。泣き叫ぶ葵の声が近くの山からこだまとなって返ってくる。柚は倒れそうになる妹の肩を抱いてやりながら、じっと空をにらんでいた。
 ざざあっと土の崩れる音が、胸にのしかかかるように響く。墓地の真ん中にぽつりと一本立っている樫の梢で雀が騒いでいる。
 空は高く青く、雲ひとつない。柚ちゃんがしっかりしているから、幸三さんも救われるねえ。後ろの列からもれてくる囁きを聞くともなしに聞いていた。感心だろうか、同情だろうか。どっちだっていい。その裏に情の強い娘だねという声も隠されているのを柚は知っていた。
 知っていて、なお、泣くもんかと思っている。突然に母を奪われた理不尽さをごくりとのみくだすことも、さりとて手放しに泣きわめくこともできず、腹を立てることでしかやりすごすことのできぬかなしさであった。素直になれぬ齢であった。

 墓地のまわりの土手で、彼岸花が一列に並んでゆれていた。


(完)


掌小説『彼岸花ゆれて』は、ここで「完」とします。
絹の死を契機として、柚をはじめ4人の女たちの人生が大きく変化します。
そのうちの2人は、まだ登場もしていません。
『彼岸花ゆれて』は、そのはじまりの第一幕です。
この後、否応なしに、もつれ絡み合っていく4人の女の物語を
紡いでいくことができれば、と思っています。

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