無益な治療が溢れた高齢化社会で、医療従事者としてプロでいることの難しさ
プロフェッショナルでいるという事は非常に難しいなと感じる事があります。
長期的に救命の可能性が難しい、もしくは元通りの生活が難しいとなった時に、誰のためになるかわからない治療が淡々と継続されているのを見ると、「自分たちの仕事の意義は何なのか?」と考える方もいる事でしょう。患者さんが悪いわけではないのにその人に優しく出来ない、ケアに心がこもらないということはどうしても避けられません。それでも、日々寝たきりの高齢者が廃用の果ての誤嚥等で心肺停止となり運ばれてきます。高齢化社会でこのような患者はますます増えていくことでしょう。意識無く、積極的に面会に来る家族もいない方が気管切開と胃瘻の状態で施設に転院していくのを見ることは虚しい場面の一つです。
そして同じような患者さんが来た時に、「またこんな患者さんをROSCしたのか?」と言いたくなる事もあるのではないでしょうか?患者さんは全く悪くないし、本人や家族は心から喜んでいるかもしれません。そしてその患者がもしかしたら元気に退院してくれるかもしれません。自分たちがそこで全力を尽くした医療を行わなければその後の患者の未来(孫の結婚や成人式の姿を見て幸せな時間を過ごしたかも)は無いのです。
自分でも本当に気をつけなければいけないと思いますが、人間は一旦歯止めが無くなると転がり落ちるように行動を連鎖させます。一度無益な治療を継続した経験を持つと、それ以降担当する同じような患者の治療もどうせ無益であるに違いないと思い込んでしまいます。歯止めが無くなった車輪のように思考を停止します。同じ病気でも重症度や助かる見込みはバラバラであり、そして何より本人や家族の死生観も全く異なるはずなのにです。
終末期に苦しい治療はもうしたくないというのは一見誰でも同じように考えそうですがそんなことはありません。「もう数日でも生きれれば最後の家族との別れができる、もしくは面会ができるのに!」という場面では侵襲治療を受け入れてでも生き延びたいと言う人がいてもおかしくありません。
一度安楽死を許容すれば、本当に安楽死にすべき人間かどうかよく考えもせずに安楽死を容易に進めてしまうようになると言うのは過去にナチスドイツで証明されています。日本が安楽死法を作らない、慎重になっている理由の一つです。
プロとしてその患者の治療適応や背景、ゴールをしっかり見極めること、他の患者や自分の感情と切り離して考えること。こう言ったことは当たり前のようで非常に難しいのです。
これからの医療ではこのような考え方を持ち、確固たるプロフェッショナルでいることの難しさが問われます。
何も考えずに救命だけをしていれば良い時代は終わります。だからと言って、高齢者は皆積極的治療の適応でないわけではありません。
個別のゴール設定が重要です。