言葉の伝わり方~新聞より
あまり理解されないが、私は「繊細さん」である。100%ではない。でも、確かにその性質は持っている。争いが苦手である。
何を言いたいかというと、新聞の、とある映画評が気になったのだ。
こういう文章を読むと、心がざわつく。
この評者は、紹介するドキュメンタリー映画がいかに優れているかということを、比較評価するために書いたのだと思う。そうなのかもしれない。「大方が凡庸」大方って、どれくらいだろう。
映画評論家にこんなことを言うのは失礼である。怒鳴られるかも。自分には繊細と同時に、ヘンクツで頭に血が昇りやすい部分もある。言いたいことは書く。悪いことも書く。
自分が書く分には平気なのか。
ああ!一読者でしかないのに、エラそうに。この厚かましさはなんだ。そう思うとめげる。
実はこの映画は見たいと思っていた。さらに見たいと思った。映画の素晴らしいところを十分に表わしている文章だと思った。だからこそ、最初の文章が気になったのだ。
もう一つ気になったこと。記事の最後のほうに、「この作品の素晴らしさは、私たちに生きる勇気を与えてくれることである」とある。(記事より)
これは、どこにでもある言葉ではないだろうかと思った。
だが、これには続きがある。
「懦夫をも起たしむ」とは、今調べたら、「意気地なし、臆病者でも、やる気にさせる」こと。初めて知った。
「あとからゆっくりくる」
そのとおりだ。映画を見て感激する。なぜ感激したのかとか、あれはどうだこうだ、とか、あとからゆっくりくるのだ。
博識で賢明な専門家が書いているのだ。
こんな細かいところに引っかかるなんて、私は変わり者でへそ曲がりなのだろうか。たぶん、そうだ。
争いが苦手と言いながら、ケンカふっかけている。
でも、ここで、私は教訓を得る。
言葉は使い方を間違えると、人を傷つける。そこまで行かなくても、不快な思いをさせることがある。自分の文章はどうだろうか。自戒している。
まだ、映画の題名を言っていなかった。
『かづゑ的』
10歳から98歳の今日まで、瀬戸内海のハンセン病療養所で暮らす元患者、かづゑさんの人生を綴った作品。
見に行くと決めている。
*淡路島のコアラ。瀬戸内海つながり。
夜中にこそっと投稿するヤツ。