映画日記~「ちゃわんやのはなし~四百年の旅人」
最終日に見てきました。
社会派というか、アート系のいつもの小さな映画館です。
なかなか面白かったです。焼き物(陶芸)の話なんだけど、それだけではない。歴史や伝統や民族、そして親子の関係とか、いろいろなモノが重層的に織り込まれていて、余韻が残りました。
話の始まりは、豊臣秀吉
慶長3年(1958年)豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵。薩摩の島津義弘に連れてこられた朝鮮人技術者の中に、初代、沈当吉がいた。陶工たちは望郷の念を抱きながら、苦労して、やがて美しい焼き物「薩摩焼」を創り出した。
さまざまな歴史や社会情勢の中、代々引き継がれていき、現当主は十五代沈壽官(チンジュカン)。映画は、この十五代の語り、インタビューを中心に進んで行きます。
十五代沈壽官の苦労
たぶん、同世代。苦労をしておられる。偏見とも闘ってきた。
跡取りとして韓国の大学院に入るはずが、それを蹴って、韓国のオンギ(キムチとか漬物の樽)工房で働き始める。「韓国の2月は寒いんだ」と語る。頼るのは「兄貴」と呼んでいた元同僚だけ。朝3時に起きて、重たい土と格闘し、夜には箸が持てないほど。でもまた朝3時に起きた。
こんな厳しい環境の中でひたすら耐えて働き、社長に認められるまでになる。この話は涙が出る。
映画の中にも登場する薩摩焼研究者、深港さんが、パンフレットに、「十五代氏はスケールの大きな人であり、かつ人たらしである」と書いています。「人たらし」とは、「多くの人に好かれる、虜にする」といった意味があるようです。言い得ていると思います。
時々見えた十五代氏の「手」。
大きくて、たくましくて、「この手が創りあげてきたんだ」と思いました。
司馬遼太郎の言葉
沈壽官氏が韓国の大学院に行かなかった理由は、大学院の面接で言われた「四百年の垢を流して欲しい」という言葉。
先祖が苦労して築きあげてきた苦労や陶器が「垢」なのか。耐えられずに部屋を飛び出した。
その沈氏を支えてきたのは、司馬遼太郎の言葉。手紙を書いたら、返事が来た。そこにあった言葉です。
どれほどの勇気になったことだろう。
これ以上の励ましの言葉はないと思いました。
今こそ、大事な言葉だと思います。
司馬遼太郎は、「故郷忘じがたく候」(短編集)の中で、十四代沈壽官のことを書いています。
親子の確執
十四代はあごひげをはやしておられました。なかなかの人物とお見受けしました。日韓交流など、たくさん活躍されていました。
十五代氏が実力をつけてきた頃、嫉妬からか、十四代が辛く当たってきたという話もされていました。うつになる程だったそうです。
ふたりの間に入ってくれたお母さんが、後に急死されたとのことでした。
十五代も続く家系を守るには、女性の力が絶対に必要だったと思います。今時、女とか男とか古いのかもしれないけど、それは思いました。
伝統を受け継ぐということ
映画には、その他、福岡県の上野焼(あがのやき)宗家「渡窯」、萩焼「坂倉新兵衛窯」が出てきます。薩摩焼同様、当時、韓国から連れて来られた韓国の陶工らが興したのです。
韓国の窯元も出てきます。
それぞれ、当主とそれを受け継ぐ息子さんがおられました。
沈壽官に十六代はいるのか、と心配しながら見ていましたが、最後の方で、息子さんが出てきて安心しました。立派な息子さんです。(見たら分かる)
跡取りという言葉が適切か分かりませんが、伝統を受け継ぐというのは、大変な重圧ではないかと思うのです。どなたかは、「そこにあるものだから」と軽く言っておられましたが。
そして、坂倉新兵衛窯の息子さんは言います。
伝統とアップデート。
そっか。それも重要なのだ。
十五代氏は、あと5年したら十六代に引き継ぐと言っておられました。
十五代と十六代が、一緒に登り窯を焚く様子に迫力がありました。薪を一本一本くべて、温度が上がるのを待ちます。
1200度までは技術だけど、そこから、必要な1280度にするのは、経験なんだそうです。良い温度になったら炎が上に出てきます。
暑そう。いや、熱そう。
先祖代々、こうやってずっと窯を焚いてきたのですね。
高齢の父親を気遣う息子さんが優しくて、頼もしかったです。
最後に、パンフレットの中から十五代沈壽官さんの言葉を。
沈壽官窯の庭を掃除するシーンが何回も出てきます。丁寧に掃き清められた庭はすがすがしいです。モンキチョウがひらひらと飛んできました。
「この蝶は母親だ、といつもみんなで言っているんです」
陶器を眺めるのが好きです。日本には、こうやって脈々と受け継がれている工芸がたくさんあるのだなと思いました。日韓の関係や民族って何だろということにも思いを馳せました。