新聞より~近藤康太郎氏「多事奏論」
感想です。
朝日新聞 2024年2月3日(土)大阪版朝刊
編集委員(天草) 近藤康太郎氏の「多事奏論」
見出しは
ふつうに違和感 はやり言葉 だから嫌いなんだ
落選
のっけから「残念無念」という気持ちでした。
近藤氏は、九州だけでなく東京でも講演や文章塾を開いておられます。その話から始まりました。
そうです、この前、東京都町田市で講演会があると知って、即、申し込みました。遠方であろうとなんのその。是非一度、近藤氏にお会いしたかったのです。そして見事、落選!そりゃそうですよね。予想を上回る申し込みがあったそうです。人気者なんだ。
「ふつう」と「かなり」
それはいいんです。いつかお会いできれば。
今回のコラムは、はやり言葉について。
記事に載っていた、主に若者が言う言葉「ふつうにおもしろかった」「かなりおもしろかった」
「ふつうに」は「期待していなかったけど、意外に」
「かなり」は「非常に」と同等か、それ以上ということ。
(記事より)
これは難しい。それを使っている人の間で、共通言語になっていないと、意味が通じない。若者と話が通じないのでしょうか。言葉は時代と共に変わっていくらしいし。
はやり言葉
次が肝心なところ。近藤氏は「語感が違うと感じることがよくある」と書いています。先輩が大嫌いな「寄り添う」という言葉。今、まさにあちこちで言い交わされていますね。
その他近藤氏の嫌いな、はやり言葉
「生きざま」
「自分事」
「見える化」
「パーパル」(これは知らなかった)
「ビジョン」など。
「語感が違うと思うのは、「スタジオ感のせいだ」と言っています。
ここで、私の思ったこと。
近藤氏は、この文章を誰に向けて書いているのだろう。新聞記者とかライターであれば、もっともだと思う。厳しさが求められる。
しかし、私のような素人ライター(えっ!ライターなん?)には、そういう言葉を使わざるをえない事情も分かる気がする。それ以外、言葉を知らないのだ。「寄り添う」など、新聞でもテレビでもよく使われているし、ああ、こういうことだなと誰もが理解できる。
大体は。
なんとなく。
「生きざま」は、私も余り使いたくない。語感が良くないと思う。でも、この前、映画の感想で使った。キャッチコピーになっていたから。
常套句は使うな!
しかーし!なのだ。私は近藤氏を師匠と勝手に呼ばせていただいている。(この事については前回参照)近藤氏の著書「三行で撃つ」を熟読している。(あやしいが)
第4発(P52)に「常套句・「としたもんだ表現」ーー親のかたきでござります
という項がある。そこから引用させていただきたい
つい書きそうです。でも、
つまり、みな同じではない。自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の言葉で書け、ということですよね。はやり言葉と常套句は、少し違うかもわかりません。でも、通じるのではないかと思いました。
そこらにある言葉に頼ってはいけない。「はやりだからと、便利の良い言葉だからとすぐに使わない。自分の言葉を必死こいてさがせ!」ということですよね。まだできていません。
ウクライナの「戦争語彙集」
最後は、ウクライナの詩人スリヴィンスキーの「戦争語彙集」の話です。単語を辞書のように並べ、現場で語られたストーリーを記録しているそうです。(読んでいませんが)
証言者のひとりの言葉が紹介されています。意味がよくわからず、何回も読みました、私なりの意訳をさせていただくと、
「戦場下の状況は、美しい比喩で表わされるものではない。他の人が理解できるような、そんな範囲の言葉では表わされるものではない」
違っていたらゴメンなさい。
よくある言葉では表わすことができない。ひょっとしたら、惨状や悲痛な声を表わす言葉は、いま、世界に存在しないのかもしれません。
日本語訳したロバート・キャンベルさんは、「現場でつぶやかれた証言という小さな言葉の喚起力」と前書きに書いています。
喚起力。
そう、現場の言葉には力がある。近藤さんの言いたかったことはここでしょうか。「現場を見て、自分の頭で考えて、自分の言葉で書け!」と。
繋がりました。
最後に
ああ、またたくさん引用とか意訳とかしています。趣旨と違っていたり、差し障りがあればすみません、ご容赦ください。私はこう感じたということです。
「言葉は難しいけど、奥が深いからどこまでも追い求めていくのだ」というのが最後の感想です。
どうでしょうか。近藤康太郎師匠!(また言ってしまった)