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母と似ている写真~新聞より

朝日新聞 10月26日(土)朝刊より

シリーズで、「戦後80年へ 特攻の記録」を連載している。
見出しは『特攻 疑わなかった私』

そこにある女学生の写真をみて、「あ、母だ」と思った。

記事は、知覧高等女学校の生徒だった95歳の女性の話。知覧は、よく知られた陸軍の特攻出撃拠点のひとつ。女生徒は知覧基地に動員され、隊員らの食事の世話などを行なった。

桜の枝を掲げて隊員を見送った。足が震えた。でも、
「勝つためには特攻にいってもらうしかない、と思っていた」(記事より)

もうお一人、94歳の東京の女性は、飛行機工場に勤労動員され、飛行機の部品を作った。それは、「名誉なことだと思った」

戦後、気がつく。
「もし作った飛行機が一機でも少なかったら、その分、若者が死なずに済んだのかもしれない」(記事より)

このお一人の当時の写真が載っていた。その写真が、母と似ていると思ったのだ。


7年前に亡くなった母は昭和4年生まれ。生きていれば95歳。このお二人とほぼ同学年。昔の写真の中に、一枚、同じような写真がある。母は制服を着て、髪をふたつにくくって、同じような表情でこちらを見ている。笑ってはいない。

どちらも、写真館で撮ったと思われる。もちろん、よく見れば違うのだけど、同じ時代を生きていた。その時代の雰囲気が、写真に現われているような気がした。

母は台湾で生まれ、その後大分の田舎に引き上げてきた。終戦時15歳。戦争の話はあまり聞いていない。

ただ、飛んでくる敵機の襲来の音が「それは、ものすごく怖かったのよ」と言っていた。もう少しちゃんと聞いておけば良かったな。


新聞記事は、当時の新聞が、戦意昂揚のための記事を掲載したと書く。特攻死した隊員を「軍神」と扱った。

近現代史研究家の辻田氏の話を載せている。

現代でも、大きな事故や災害があると、「英雄」や「感動話」が語られることがある。その陰で責任の所在がごまかされたり、根本的な問題が隠されたりしていないか。

昔の話ではないのだ。

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