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新聞より~ゆるやかに認め合う
1月6日 朝日新聞 13面
寄稿 作家 角田 光代氏 「ゆるやかに認め合う」
コラムはかなりの量で、これを要約するのはかなりの労力です。
テーマは「共に在るということ」
タイトルは 大見出しが「ゆるやかに認め合う」で小さいのが「旅する人しない自分」「正義に満ちた不寛容」「コロナ禍のストレス」
これを見れば大体わかると思うけど、私なりに試みてみます。
【ここから要約】
コロナのパンデミックでこの2年間世界じゅうの人々が今までと異なった日々を強いられることになった。
マスク、手洗いの励行、制限されるもの、旅行、宴会、外食、遊び、外出。仕事・・・大変である。しかし、何が一番ストレスになるかは人によって違う。
そもそもコロナに対する考え方も人によって違う。この他者との差異。危機感に対する違いがもっとも大きなストレスになるのではないか。
どこも行かないようにしているのに、誰それは出かける。緊急事態宣言によって店を閉めたり時間を守ったりする店の一方、開けている店もある。
これまで私と私以外の人たちの考えが違うことをきちんと知っているはずだった。それなのに、このパンデミックで、人の考え方がこんなにも違うのかと改めて驚いた。知っていたことをこんなにも知らなかったと気づかされた。
自分の考えがいちばん正しいと思う、正しくない考えの人を非難したくなる、という世の中の、正義に満ちた不寛容な傾向も、パンデミック前からきっと感じていたこと。だがマスクをしているとかお酒を提供しているとか具体的にわかりやすいので、分断が進んでいるのではないか。
自分と異なる解釈や嗜好や実行方法について、排他的にならず、ゆるやかに認め合ったほうがいい。話の合う人も合わない人もいるという状況が正常であると知っておいたほうがいい。
違う考えを認めないと言うことは、自分もまた認められないということで、そんな分断は窮屈。
私たちは全世界の人とこのパンデミックを共有できる。私たちにとってこれは何だったのか、どう暮らしたのか、言葉を超えて共有できるはず。それが「共に在る」ということと思いたい。
【要約終わり】
コロナに関する考え方や感覚の違いは、日頃痛感する。非常に繊細になっている人もいれば、「自分は大丈夫」と自信のある人もいる。「正義に満ちた不寛容」も起こる。
「人は考えが違う時にどうしたらいいのか」というのが、ずっと思っている私のテーマである。コラムの中で角田氏が言っているように、「私と私以外の人は考えが違う。合う合わない、受け入れる受け入れないということはあっても、その違いは画一的すべきではないし、できるはずもない」と、私も思っている。
でも、ふとした時に、違う考えの人を批判したり排除したりしているのではないかと思う。
「ゆるやかに」というところが難しいが、「自分はこう思う、あなたはそう思うのですね」と認め合うことができるといい。
見出し画像は「早く行きたい京都」