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自分の終活を考える

 昨日の朝は雨。いつものように原付で通勤しましたが道は渋滞していました。バスに後ろについていた私は、バスの背面の広告をずっと見ながら走ることになりました。それはお寺の中にある堂内墓地の案内でした。「屋内で安心。駅から近い。永代供養」とあります。いわゆる現代のお墓、「御廟」というらしいです。

 それを見ながら「都心の、と書いてあるけど、東京でなくても言うのかなあ」とか、「写真のお墓の家名が草彅家になっているけど、まさかスマップの草彅君と関係ないよなあ」とか、いつものように一人でツッコんでおりました。そこから、両親4人(夫と私のと)を見送った時のこと、そして自分の終活について考えを巡らせました。長くなりますが、それぞれの葬儀、見送った時のことを書いてみようと思います。

 最初に見送ったのは夫の父でした。74歳と、他の3人に比べると早かったです。知らせを受けて私も子どもたちを連れて新幹線で駆けつけました。冠婚葬祭の会に入っていて、その会場でごく普通のお葬式を行ないました。この前、その時の写真が出てきましたが、その頃はまだ父のきょうだいも健在で、親戚中来てくれたと思われるほどたくさんの人が集まってくれました。

 次に見送ったのは、私の父です。91歳でした。父は「葬儀はするな。子どもたちだけで送ってくれたら良い。孫も来なくていい」と言い、文章にも残し、手紙で送ってきました。それでも亡くなった後、母と私たち子ども3人で、父の遺志を尊重するのかどうするか話をしました。やはり父の遺志を尊重すべきということになり、葬儀場には行かず自宅に帰ってきて、そこから斎場に向かいました。

 弟が一切を仕切り、旅立ちの前の晩は、近所の方々に来てもらって故人を偲んでいただきました。もちろん宗教的な事は一切なく、父の好きだった「イマジン」を流しました。

 その後いとこが来て、短いお経を上げてくれました。それを聞いた時、心がすっと軽くなるのを感じました。なぜなのでしょう。お経の持つ力だったのかもわかりません。

 義父亡きあと、10年間一人暮らしだった義母は、家をたたんで我が家にやってきました。仕事をしていた私の留守にも元気で過ごしてくれていたのですが、大腿骨の手術の後自宅に帰ることはできませんでした。義父と同じ4月に亡くなりました。94歳でした。

 葬儀は家族葬で行ないました。子どもである夫と私。義姉夫婦。娘夫婦。叔父が高齢にも変わらず、来てくれたのが申し訳なかったですが嬉しかったです。義父の時からすると時間も流れ時代も変わり、あの集合写真を改めてみると、亡くなった方が多いです。

 義母が最後の病院に入院していた時、私の母が倒れました。父が亡くなって2か月しかたっていませんでした。半年後意識が戻らないまま母は亡くなりました。母はクリスチャンでした。大人になってから入信したので、それほど熱心ではなかったかもわかりませんが、教会のボランティアには率先して行っていました。

 その教会でミサを上げてもらいました。とても素敵な協会で、外国人の神父さんに導かれて賛美歌を歌いながら、私は母がこの世の苦しみを全部解かれて、神様の元に行ったのだなあと感じることができました。88歳でした。

 1年に3人の親を見送りました。それも、三人三様で、それぞれふさわしい見送りではなかったかと思います。

 ではでは、自分のことを考えてみることにしましょう。私も父と同じく「葬儀は要らない」と思っています。それは昔から思っていることです。誰も知らないうちにそっとあの世に行ってもかまわない。でもお葬式は本人のためではなく、残された者のためとも聞くからそうもいかないかなあ。

 それなら無宗教にしてほしいな。音楽葬でもいい。この頃YouTubeでクラシック音楽を聞くので、どれが良いかなあと思ったりします。実は今来てもらっているお寺さんは、お寺の活動でいろいろとお世話になっているので、お経を上げてくれなくてもいいですと言いにくい。

 どこで眠るか。義父母や小さい頃亡くなった夫のきょうだいが眠るお墓は山の上にあります。見晴らしはあまり良くないけど。夫はそこに入るでしょう。私はどうしようかな。それこそ散骨してくれてもいい。お寺さんには樹木葬がある。そっちは使わせてもらってもいい。

 まあ、そこに私はいないから、どうでも良い気もする。大空を飛び回っているから。何かの歌になりました。ちなみに母は自分の父母兄妹と眠っています。

 終活というより、自分の葬儀について、でしたね。まだ「考え中考え中」ですね。でも子供らが少しは私の気持ちをわかってくれたらいいなと思います。これを書こうと思わせてくれたバスの広告でした。

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季節は違いますが、義母が自分の家から持ってきて大事に育てていた牡丹。

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