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【銭湯語り】サウナで見つけた手話(?)と多様性
銭湯には色々な年齢、色々な雰囲気の人が訪れます。
週一回は通っている行きつけの銭湯でも、仕事帰りのサラリーマン、部活が終わった後の学生さん達、近所にお住まいのご高齢の方々など、客層は多種多様。
そんな中で先日、ちょっと印象深い人達を見かけました。
サウナで見かけた2人
銭湯に入る時はまず体を洗って、ぬるめの湯、熱めの湯につかり、水風呂でいったん体の熱を取ってからサウナに入っています。
サウナルームに入り、熱気で汗をかきつつTVモニターを見ていると必然的に、僕以外のお客さんが出たり入ったりも一緒に見ることになります。
ある時、若者の2人が入ってきて僕の左横に座りました。ご友人同士でしょうか。
そちらをジロジロ見つめたりなどは、失礼だしトラブルの元なので当然やりません。
とは言え、ずーっと頭を固定してTV画面ばかり凝視しているのも難しいもので、時おり目を閉じてみたり、首筋をほぐすようにして周囲を眺めたりすることはあります。
「あれって手話かな?」
それで左にいる二人組の手元が目に入ると、何やら手指を使ってサインを作ったり、指を交差させたりしています。
身振り手振りのジェスチャーを交えて、口からは一言も発さずに、何かを伝え合っているようです。
それが見えたのは一瞬だけですが、「手話かな?」と思いました。
二人のどちらか、もしくは両方が聴覚に障害を持っていたのかも知れません。
サウナで同室しただけですから二人の素性は全く分かりませんし、僕自身が手話に明るい訳でもないです。
なので、僕が見たものがそもそも手話じゃなく、単なる勘違い・見間違いの可能性もあります。
それでも本当に手話であるなら、これは地味に意義深いことなのかも知れません。
手話なら「黙浴」でも会話OK
コロナ感染予防の策として、都内の銭湯では、浴室内ではなるべく会話を避ける「黙浴」が今も奨励されています。
銭湯からクラスター感染を起こさないために必要な措置であり、開始から2年以上が経ったこともあって、会話のない銭湯風景も今ではだいぶ馴染みのものになりました。
それでも、良いお風呂に入った時に、隣にいる知り合い同士、または知らない人同士と、気さくな会話がしづらいことに窮屈さを感じている人も多いことでしょう。
手話であれば言葉を発さずに済むので、手話が分かる人同士であれば、黙浴も気にせずに会話が出来ます。
聴覚障害のバリアだけでなく、コロナ禍の生んだ社会的バリアも、手話の力なら逞しく乗り越えていける。
そういう現場を僕は見たのかもな、ということを考えていると、その二人は僕より先にサウナ室から外へ出ていきました。
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銭湯と多様性について想う
くりかえしですが、銭湯には色々な年齢、色々な雰囲気の人が訪れます。
小柄な人、大柄な人、若い人、ご高齢の方、筋骨隆々な人、持病を患っていそうな人。
浴室内では、ハンドタオル以外に体を隠せるものはありません。それぞれ体の形や特徴は普段以上に明瞭となります。
それでも、裸一貫で同じ浴室に入り、同じお湯に浸かっていれば、全員が平等です。そこには何の分け隔てもありません。
あるいは能力的・内面的に生きにくさを抱える人がいたとしても、そういう人を周りが自然と支える気風が、銭湯にはまだ残っています。サウナ室で見かけたあの二人のように。
現在は人間の多様性を尊重する価値観が社会に浸透しつつありますが、その遥か以前から、銭湯はもともと多様性を受け入れる場所であったのかも。
…というのは発想の飛躍かも知れませんが、時代の流れに従って銭湯にも新たな役割や価値が生まれるのかもな、ということを考えつつ、その日は「いい湯だったな」という感触と共に銭湯を後にしたのでした。