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「いかにして空白の哲学を生み出すのか?」【明け方のエコール特別編】(夜燈+小林@ソトのガクエン)(前編)
はじめに
夜燈と小林(@ソトのガクエン)による哲学対話Podcast「明け方のエコール」特別編として、2023年11月8日に配信された第12回「空白の哲学を生み出す」を文字に書き起こしたものを、前編と後編にわたり公開いたします。「空白の哲学」というタームをめぐり、日常的な意味での空白とは何か、哲学的に空白をどう考えるのか、語りえない空白とは何か、そしてさらにその先へと夜燈と小林が思考をつき進めていきます。二人の対話が展開される中で哲学的思考が紡ぎ出される瞬間をお楽しみください。
後編はこちらからご覧ください。
「空白の哲学」について深める
夜燈:今回はちょっと特殊回というか、まあ、今後ひょっとしたらそういう回が多くなっていくかもしれないんですけど。
小林:ふんふん、はい。
夜燈:あのまあなんでしょうね。ちょっとリスナーさんからの、リクエストというかご意見としてあった、毎回、2個から3個ぐらいのテーマで、まあ時間を気にせずにゆっくりお話ししてほしいなあというふうに思っているというお話もありましたので、それをちょっと取り込みつつ今回はフリートーク回というか、あんまり、こうなんだろう、私のテーマにのっとらずというか(笑)、ちょっと誰にも支配されずにやっていこうと思います。
小林:なるほど。まあまあそうね。
夜燈:そうは言っても、前回、第11回目のラストの方に出た「空白の哲学」っていうようなお話をちょっと織り込みつつやりたいかなっていうような感じですね。私がメモしているメモを参照させていただくと、「空白の哲学」ってどういったものかっていうと、なんか、これ、そもそも小林さんが提唱したものというふうになってたんですね。
小林:あんまり考えてなかったですけどね。
夜燈:聞き返してみると、実際、「空白の哲学」みたいな言葉がワードが出てきたのは小林さんの口からだったので
小林:はいはいはい
夜燈:小林さんが提唱したことにしたいと思うんですけど(笑)、まあ2人で考えたことなのかな、わかんないけど。
小林:空白、まあ、別に日頃から空白について考えてないですもんね。
夜燈:そうですよね。
小林:あの場でこう、パッと出た感じですもんね。
夜燈:そうそうそう。なんかこう、「余白を空白で充満させる」とか。あと、「人の考えている空白は空白ではない」とかっておっしゃってたんですよ。で、それがすごくこう面白かったので、これについてもう少し膨らませられないかなって考えまして、今回、主なトピックとしました。「空白の哲学についてを深める」といったテーマでやりたいと思います。なので、ちょっと今日はまあ正味一時間半ぐらいですけど、これともう一つテーマがあるんですけど、それについてでちょっと埋めていこうと思います。
小林:うん、はい。
余白を何で埋めるのか
夜燈:そうですね。そもそももう一回、いっても1週間ぐらいしか経ってないわけなんですけど、まあ、当時のことを思い出すような感じで、この「空白の哲学」って、そもそも何ですかっていうお話をしたいですよね、まずは。どういうおつもりで?
小林:何でしょうか、なんでしたっけ? えっと空白の? そもそもなんでこんな話になったのか? っていうことですね。
夜燈:うんうんうん。我々、話した記憶に残らないので(笑)。
小林:そうそう、余白をどう、あ、そうそう思い出した。思い出した。あの、はじめは確か夜燈さんが
夜燈:はい。
小林:ええと何ていうかな? そういう余白っていうものを作ることが必要というかね、重要だっていう話をしてたんですよね、確か。
夜燈:そうですそうです。資本主義が云々みたいな話をしたと思うんですよ。
小林:で、まあ、その余白をいろんな情報でこう埋めるっていうのは、やっぱり、まあ、なんか貧乏くさいというか、むしろ心にゆとりがないというか。なんか非常に強迫神経症的にね、いろんな情報を埋めないといけないっていう。なんか余白恐怖症みたいな感じ。
夜燈:はいはい。
小林:世の中には(そういうのが)ある感じ、っていうのはなんか分かるんですが
夜燈:そうですよね、「タイパ」とかのやつとかもそうですよねって話はしましたよね。
小林:だから、余白っていうのを情報で埋めるのではなくて、なんか、別の埋め方っていうのを考えるべきなんじゃないかなっていう話をしてたんですよね。で、それで一個言ったのが
夜燈:はい。
小林:埋め方でも、その、空白を空白のまま埋めるっていうやり方もあるっていう話があった
夜燈:それが余白を空白で充満させるっていう話ですね。
小林:それにちょっと繋がるような、ちょっと、繋がるのか繋がらないのか
夜燈:うん。
小林:繋がるのか繋がらないのかっていうのが僕の中であんまり定まってないんですけど。要するに大学生がね、ファミレスで別に何もすることなく、そして、何でしょうね、何も語ることなく、なんでしょうね、それこそオールでカラオケに行って、なんかもう4時とか5時とかになって、もう別に誰も歌わず
夜燈:あのシーンとしてる
小林:あるいはカラオケだけが流れてるみたいな。で、それをこう過ごしているっていうのも一応ほら空白を空白のまんま過ごしているっていう。まあ、なんか無為の時間があるじゃないですか。あれもひとつの過ごし方というか、余白の埋め方ではあると思うんですよ。で、それもあるんだけど、それとも違うオルタナティブをまあ、哲学としてはね、なんか考えたいっていうところがあるんです。だから、余白を余白として過ごすっていうその大学生の無為な過ごし方って哲学的に結構重要というか面白いような気もするんですけど、それのもっと先を考えたいなあっていうのは個人的にはある。あるっていうのと、そうそう、あのTwitterで、今Twitterって言わないんですね、Xのリプライをいただいて、これについて思ったことは、やっぱり空白って、空白という言葉でマークしている以上、やっぱ操作ができるようになっちゃってるんですね。操作可能な空白になってしまってる。そうそう。そうじゃなくて、うんと純然たる空白っていうのをまずどう考えるのか? で、それをいかに埋めるのかっていうのを考えれば、非常に形而上学的なところまでいけるんじゃないかっていう。そうそう、まあまあ、そこまで行くにしてもね。もちろん具体的な案とか考え方って全然なくて、とりあえず方向性はね、個人的にはそっちが面白いなっていうのは、そう、なんか思ってたんですよね。なんかほら、大学生が無為に時間をそのまま何もせずに過ごすってなんかよくあることじゃないですか、別に。なんか誰でも言ってそうじゃない? あれがなんか人生で一番豊穣な時間の過ごし方だったなあとかっていうのは、なんかおっさんが言いそうだとも思うんです。
夜燈:そうですよね。誰もが羨む状態ですよね。何の心配もなくみたいな。
小林:そこになんかね。そうそう、あ、いいですねそれ。何の心配もなく、なんかそんな歌ありますよね。なんかね。しらないけどなんかこう守られてた感がある。モラトリアム的な。そういうのはあるけど、そこに着地させても面白くないなって。
夜燈:あれですよね。小林さん的には形而上学的な方面まで進めていきたいというふうに考えていらっしゃるということですよね。
小林:そうですね。それこそ空白とか不安とかっていうのは、おそらくそこにつながってる概念でしょうからね。根源的なところにね。そう、それを取りこぼさないようにどう考えるかっていうのは、デカすぎますけどね、テーマとしてね。
夜燈:まあ、せっかく打ち出した哲学、オリジナリティのある哲学的テーマですから、まあ、これを生かさないではないと思って今回テーマとして持ってきたんですけど
小林:それを、とりあえず夜燈さん的にはどう受けるかっていう
夜燈:やっぱり前回の話を踏襲すると、あのマクドナルドで男子高校生とかが何をするでもなく、食べながらくっちゃべっている、その時間とか、それこそ大学生が徹夜カラオケをしたりだとか、何をするでもなく、ぼうとファミレスで、今だったらね、サイゼとか、そういうところで時間を潰しているっていうその営為というものについて、もう少し多角的に捉えてこうっていうふうに考えるんですよね。うん。
小林:なんかあれですね、ちょっと「エモい」っていうのにも絡んできますね。
夜燈:そうですね、エモには関わってくるでしょうね。
小林:ね、うん。
夜燈:そういうものが「エモい」とされていた青春ですよねある種
小林:うんなんかね、なんでしょうね。
夜燈:そう、なんかこうこうやっぱエモーショナルな気持ちになるわけですよね。そういう時期が俺にもあった・私にもあったっていうものがあるわけですよね。
小林:なんかそれもね、それこそ自分の過去の一断片を消費してる感じはありますよね。
夜燈:思い出を。それも前回の話にちょっと絡めますけど、過去に執着してる感じがありますよね。
小林:そうそう。なんかね。まあありがちですよね、それはね。
夜燈:うん。
小林:ありがちだし、うん、そうね、そっからなんかクリエイティブなことが生み出されるのかという疑問点はありますね。
夜燈:いや、でも、そういうところから、いつの間にかこう卒論のテーマが浮かんできたりとかするんじゃないですか? 私はそういった時代はあんまり過ごさなかったので分からないんですけど。
小林:えっと、あ、そういう状況の中でっていうことですか?
夜燈:そうですそうです。ひらめきがあったりとか、
小林:それはあるかもしれない。
夜燈:これしたいあれしたいとか、こう、ひょっとしたら将来これやりたいかもとか、その思考は多分張り巡らされてるわけだと思うんです、その期間、過ごしてる間に。何か、「何もしていないをしている」ってほら、あのプーさんのね。あれをしてる人もいれば、思考を巡らしている人もいるはずなんですよ。で、私はまあ、どちらを取っても構わないと思うんですけど、その思考を巡らしても別にどちらでも構わないと思うんですけど、多分、空白で空白を埋めているみたいなものは多分前者だと思うんですよ。
小林:うんうん。
夜燈:「何もしてないをする」っていうことはそっちだと思うんです。思考とか構想してる人っていうのは、その時間を思考でこう埋めている人っていうのは、空白の哲学には入らないと思うんですよ。なんかこう、必要十分条件みたいなのを探してったらいいんじゃないでしょうか? 「空白の哲学」っていうのは、どこまでの範疇を言っているのか? そういう何て言うんですか、規定をしていかなきゃいけないと思うんですよ。何か哲学的な何か概念を生み出す時っていうのは。
小林:今、夜燈さんに言われたことと、まあ、まったく方向性は一緒です。その前に、だから僕が言ってたのは、現時点で過去を振り返って、その無為であったときのことを考える、過去に固執するっていうこともでもいいんですけど、そこからはクリエイティブなことって生まれないよなあっていう感覚があったんですよね。そうそうだから、メタ的に過去を振り返って、そこからは、それこそなんかエモい話しか出てこないじゃないですか。そんなもん。
夜燈:そうですね。エモさ。
小林:だけど、それって現代においては音楽・映画、いろんな場面で量産されていることでもありますよね。そう、だからそれは違うなっていうのはある。夜燈さんが言ってくれたように、その場で何が起きてるかっていうところを見ていく方がいいですよね。
夜燈:いい線いってるんじゃないでしょうか!
何もしていなくても思考は張りめぐらされている
小林:しかも、そうそう、何もしてないっていうことは、何もしてないっていうのは、まあ、要するに意識下の話ですね。意識的に何もしてない状態を意識できてるわけですから。だけど、そこで思考が張り巡らされているっていうのは、まあ、無意識的にはありますもんね。絶対あると思うし、なんかうん。よくほらね、僕もそうですが、シャワーしてる時とか、別になんか考えようとしてないけど、無意識下でなんか思考は張り巡らされていて、それがポッと勝手になんか、
夜燈:表面化してくる。
小林:うん、ああ、ありますからね。それはあると思います。
夜燈:むしろそういうことの方が多いと私は思いますよ。私も創作、まあ、この後の話につながるのかもしれないですけど、伏線を作っておくと、創作をする時には割と意図的にシャワーの時間を設けたりとか、何らかのこうブレインストーミングを図るわけじゃないんですけども、意図的に、まあ意図的っちゃあ意図的なんですけど、そういうタイミングを必ず設けるんですが、そういう行動に足が勝手に向いていくんですね。
小林:やっぱり、非意志的な思考っていうのがありますよね。そうそうそう。そこにどうアクセスするかっていうことですね。だから、夜燈さんみたいにシャワーの時間を設けるってのもあるし。そう、うちの師匠の檜垣立哉は深夜に散歩しますからね。そこでだからいろいろ思い浮かべるんでしょうね。アイディアなど、思考などをね。そう。それは、そっちの方向はあるでしょうね、うん。そう。どう狭めるか、どう方向づけて行ったらいいんでしょうね、これね。
夜燈:こういうのは初めての試みなので、全くいつも通りではないんですよね。正直、やり方としては。まあ、でもこれもこれですごくクリエイティブで面白いですよね。
小林:そうですよね、そうそう。
夜燈:まあ、その、なんだろうな。こうまあ空白の哲学っていうものっていうか空白っていうものは誰にでもあるし、まあ、でも昨今の様子を見ていると、世間の様子を見ていると、空白をひたすらなにものかで埋めようとする人たちが多いっていうことは言えると思うんですよね。
小林:そうですね。
夜燈:あと時間に追われている。タイパとかの話ですよね。この明けエコではかなりタイパについて言及してますけれども、タイパ・コスパなどのことで、とにかくこう時間をいかに有意義に使うかっていうか、その有意義性みたいなものをすごく意識されてると思うんです。「何を持って有意義とされているか」みたいなものを凄く探求されていると思いますし、その、ええ なんでしょうね。意味のないことしちゃいけないみたいな風潮も何となくあるような気がしています。
小林:そうですね。
意味のないことへと迫る
夜燈:で、たぶんその「空白の哲学」に迫っていくために、キーポイントとしてその意味のないことっていうポイントも結構大きいと思うんです。
小林:そっちですね。はいはいはい。
夜燈:そう。意味がないことを何かこう想像して行くというか、何て言うんでしょうね。こう、そこに迫っていくことが結構ポイントになっていくんじゃないでしょうか。今閃いたんですけど。
小林:これ、あの、もっと話ややこしくしますけど、じゃあ、その、ええと、今は要するに、空白っていうものを埋める側の話をしてますよね。だからその、情報的なもので埋めるんじゃなくて、意味がないっていうことを埋めるっていう方向に行く。で、その前段階に、そもそも空白っていうものを、これまでの話ってなんか入れ物みたいな感じで捉えてる。
夜燈:そうですね、捉えてますね。
小林:要するに、時間的な空白。で、これ時間的っていうのも、実はこれってやっぱりベルクソン的だなと思いまして
夜燈:そうですよね、ベルクソンだと思いました今(笑)
小林:そう、非常に空間的に捉えてるんですよね。(何かを)入れられるっていうことですからね。あるいは物差し的に測れるものを時間というふうに呼んでいる。
夜燈:時間って横軸ですからね。
小林:そういう意味での空白ではないものもあるんじゃないかなって思う
夜燈:ちょっと難しくなってきましたよ。
小林:これはだから、今ほら、ブレインストーミング的にやってるから
夜燈:ああ、そうか
小林:それを出しまくって、あとでこうリゾーム的にくっついてけばいいので。だから、埋める側、埋める内容のほうではなくて、埋める形式の方というかこの皮(ガワ)の方の空白ですよね。空白っていうものの見方も時間的=空間的なものではない空白っていうのもありあるような気がしますよね。
夜燈:何かにとらわれない、浮いてる、浮いてる空間っていったらいいんですかね? それも空間的に捉えているか?
小林:そう余白。うんなんか、ほら、30分あります=余白っていうことじゃなくて、なんか瞬間もあると思うんですよね。瞬間的な余白。で、その瞬間的な余白の中に、何でしょうね、無際限に内包されている瞬間ってなんかあるような気がするんですよね。そう、だから単純に何もしない一定の期間という意味での空白ではなくて、瞬間的な空白っていうのもあって。でその、うん、その中にもなんかあるような気がするなあっていうのは、今思いましたね。とりあえずそういうのもあるということで、ちょっと無意味の方で進めていきましょうか?
夜燈:はい、「意味のない」感じで、ちょっとダラダラ喋ってみましょう。あの今、私が小林さんのおしゃべりを聞きながら想像して色々と思索を練っていたんですけど。あの、もちろん聞いてました。聞いてたんですけど、あの。はい。あと、まあ聞いてない可能性もあるかもしれないんですけど(笑)。あの、すごい考えてたんですよ。考えてた中で、あのなんか、選択っていうことが、あの「お洗濯」じゃないですよ、チョイスの方です。チョイスっていうものも、結構空白というかそれも時間的な話にちょっと行っちゃうのかもしれないんですけど。でも私、今ちょっとこれ全く関係ない話になっちゃうんですけど。結構昔の海外ドラマにはまっててというか、DVDを持ってですね、それにはまってるんですけど。それ、二つの世界線みたいなものがあって、それに自由に移動できるみたいな。なんか移動できる人がいて、その人それ、二つの世界が戦争みたいになって、それでどうかどうこうするみたいな。そこは核心に迫ってちゃうんで、ネタバレになっちゃうんで言えないんですけど、そういうドラマがあるんです。それみたいな感じで、こう世界線の束、「知覚の束」みたいな感じですけれども、なんかこう世界線の束みたいなものがあって、それをこう我々は何らかの分岐によって選択している、選択によって分岐する、分岐によって選択しているのか、どっちだろう。まあ分岐と選択っていうものがあって、まあなんか要は美少女ゲームみたいなイメージですけど、あの選択肢? そう、分岐して行くんですよ、ルート分岐みたいな。それを我々は人生において行っているわけなんですよね。結構その空白って、人生にかなり依存してるというか、私たちはまあ時間というものと切り離せないじゃないですか。24時間みんな分け与えられていて。その中で空白っていうものを見つけて、だから空白っていう概念は時間と切り離せない存在なんですよね。
小林:そうですね。
夜燈:うん、そう、そこが問題だと思うんですよ。だから。時間というものをベルクソン的にその空間化して考えちゃいけないっていう話になってると思うんですけど、なんとかこううまく話をもっていけないかなっていうふうに今考えてて。どうしたら、こうなんて言うんでしょう、フレキシブルになるんだろう? アクロバティックに話が持って行けるのかって考えるんですよね、今。
小林:なるほど
夜燈:なんか縛られちゃってる気がするんです、既存の何かに。結局、その昔の哲学者の何かの枠組みに囚われちゃってるんですよ。まだそこから出られない。
小林:まあもちろんそうですよね。
夜燈:ね。だからもっと既存のものから抜け出さないと。
選択以前・選択肢未満の選択肢
小林:そうですね。今の夜燈さんの話もよくわかるし、わかった上で違う方向にそらして行くとすると、そう、今のでいえば、選択っていうのはAとBがあって、どっちを選ぶ? あるいはAとBとCがあって、どれかを選ぶっていう意味での選択じゃないですか? で、さっきの空間化された余白ではない、時間そのもの、時間性における空白みたいなのがおそらく何かあると思うんですよね。そこって、なんですか、選択肢がこう並べられているというか、それこそ無際限にこう選択肢がある状態がフローな状態というのか、こう宙吊りの状態で置かれているというか。だから、選択以前の選択みたいなものが多分あると思うんですね。それでも、さっき夜燈さんの言っていたような非意志的な思考みたいなことを考えた時に、やっぱA・B・Cみたいにこう並べられているものから選択するっていうのは、やっぱり意識化されている、意識的な選択なんですよね。そうそう。それ以前の選択、ないし、選択肢ということがあるんだろうなという。
夜燈:選択にものぼらない選択があるってことですね、うん。
小林:そうそうそうそう。だし、結局でも、現在っていう点があるとするならば、その現在に至る以前に多分そこでの選択が、今の現在っていうのを多分変えてるはずなんですよね。多分。そうそう、だから、夜燈さんがいう、要するに現時点でこれを選択して未来が変わるっていう意味での選択以前に、現在っていうものを別様にもなる、なり得たものとしてあるであろう選択っていうのが多分あるんだろうな。で、そういう時間、時間性における空白っていうもの、そしてそれが何かで満ちているっていうイメージは、結構、現在以前の時間性みたいな感じ、それが印象としてはあるなあっていうのはちょっと思いましたね。だから、本当に夜燈さんの言っているのと、僕が言ってるのって、それこそ二つの世界線で、全然違う話をしてるんですけど。でも並行しているというか。
夜燈:ほぼ一緒なんですよ。何かがちょっとちょっとずつ違うだけで。で、それって選択によって分岐してるんですよね。ただ、その選択っていうものがそもそも空間的だから、それ以前のものが欲しいよってことで、それ以前のものっていうのは、多分宙吊りの、何か選択肢なんですよね? 選択肢未満の選択肢だと思うんですよ。そこを深めていくと、何か見つかる気がするんですけど、どうですか?
小林:そうそうそう。そういうので充満させるっていうのが
夜燈:そうですね、選択肢未満。
小林:イメージ…、なんかうん、近いですね。
夜燈:ええ、そう、未満で埋めるみたいなもんですよね。
小林:そうそう、そうそう。A・B・C・Dという選択肢で埋めるんじゃなくて、Aに至るまでのA未満 、Bに至るまでのB未満という選択肢で埋めていくっていうのは、あり。
夜燈:ありそう。
小林:あるかなというふうに思っています。
夜燈:なんか、だから、その名状しがたい何かみたいなもので構成されているのが空白っていうものっていうことですよね。ネーミングされてないってことですもんね。それがネーミングされちゃうともうそれそれになっちゃうんですよね。
小林:それもそう。何か、さっきのね、入れ物としての空白みたいな考え方を脱構築しようとするんであれば、何て言うんですかね、そういう選択肢以前の選択で埋めるというよりかは、選択肢以前の選択によって空白っていうものが生成されていくというか、むしろイメージとしてはなんかそっちの方が近いですね。空白っていうものがあって、それで何かで埋めるというよりかは、埋められる内容物で、空白をどんどんこう膨らまして行くという。空白ができていくっておかしいですね。充満した空白が出来上がっていくっていうような。うん、イメージかなと思いますけど。
夜燈:わかります。
小林:ええ、そうそうそう。
夜燈:うん、だから、なんかもう、こう、何かを名状してしまったら、こう名前を規定してしまったら、そこでもう空間化されてしまうっていうイメージが私の中にあって、
小林:まあまあ、それもあると思います。
夜燈:うん、そうだから、タグ付けしちゃいけないというか。
小林:でもそれって結構何て言うの? 本当に「現代思想手解き」っていう感じもするんですよね。
夜燈:そうそうそうだから、そっちに行っちゃダメなんですね。
小林:そうなんですよ。いや、だから、いいんです。一回、「名付けられないもの」とか、あるいは「言語化できないもの」だって、「言語化できないもの」っていうふうにして言語化してるわけですから、
夜燈:そういったものから脱却して行く。
小林:いや、脱却するというよりかは一回それでマークしておけばいいと思う。そうそうそう。言語化できないもの・知覚できないものととりあえずマークしておいて、それの内実を考えるっていう方向の方がいいと思うんですよね。
夜燈:確かに賢いかも
小林:そこにこう、何ていうの、入り込まないようにってなったら、本当に沈黙せねばならない、しかない。
夜燈:行っちゃダメなんですね。
小林:そうそう、デッドエンドなんだと思うんですね。
夜燈:それはダメですね。
小林:そうそうそうだから、なんかデリダっぽくなるのか。なんか脱構築みたいな話か。
夜燈:脱構築っていってるからデリダだってずっと思ってたんですけど(笑)
小林:だから「語り得ぬもの!」みたいなものを押し出すんでもなく、語り得ぬものというのを脱構築していくっていうのでもなく、その間をこう抜けてですね
夜燈:うん、いやでも、こういうことを考えると、哲学者って凄いなって思いますね。
小林:お見通しというか、もうここまでの話はもうされてますから、別にありものですからね。
夜燈:そうそうそう、もうすでに誰かが喋っちゃってる。
小林:そうそうそう。なんでしょうね。そこからどうこう抜けていくか。
夜燈:そう、抜け方ですね。どうやって哲学者たちは頭を悩ませた挙句に抜けることができたのかなんか、そういうのが見たいじゃないですか。うん、私たちが哲学してるところを多分見たい人がいるから聞いて頂けてるんだと思うんですよ。
小林:抜け方ね。どうしたらいいんでしょうね? そこからね。
着地点、帰着点としての創作
夜燈:ちょっと一回整理しましょうか? まあ、でも今んとこで整理できましたよね。その、哲学者の言ってることを言うのではなくて
小林:うん
夜燈:そのあいだをかいくぐっていくっていうか
小林:そうそうそう。だし、まあ、もう少し詰めて考えないとね。さっきの空間化されている、ね、えっと、空白、余白か。と、ええと、時間的な空白、本来の意味での空白っていうのが、実際のところ、どういうこっちゃねんとかっていうのは、本当は詰めていかなきゃいけないんですけど。とりあえず見取り図的にはね、なんとなく浮かび上がってきた感じはありますよね。そうそうそう。うん、そうですね。うん。
夜燈:着地点をじゃあ、まあ着地点すらわからない。それを探してるのかもしれないんですけど。最終的にはどこを目指してるってことですか? やっぱ形而上学に着地したいわけですよね。
小林:というか、えっと逆です、逆です。要するに、今の話で突き詰めていくと、抽象的な話にしかならなくて、帰ってこれないですよね。そう、帰りの切符をちゃんと用意しておかないといけない。それが、多分、夜燈さんの役割というか、多分、創作とかってそっちに
夜燈:そうですね。無理やり着地点を見出すからね。
小林:そうそうそう、そうそう。抽象的な行ったっきりじゃなくて、やっぱ回帰してきたところにあるのが
夜燈:収束させたいから。そうそう。終わりを、「ちゃんちゃん」をつけたいわけですよね。
小林:そうそう、そこが絶対必要だと思います。
夜燈:じゃあちょっといつもの創作をつくってるような感じで、ちょっと一生懸命創作したいと思います。
小林:そうそうそう。だから、それはそのときにだからいかに
夜燈:使ってる回路を使うわけですよね。要は
小林:うん。だし、要するにエモいものとか、あるいは、要するに、ありきたりなものにいかに着地させないかっていうところのセンスですよね。
夜燈:いや~、それは完全なる創作の世界ですね。いや、でもこれは腕試ししないと。
小林:そうそう、必要。やっぱ帰ってこないといけない。
夜燈:一回、どっかオルタナティブな帰着点に収束しなきゃいけない。それにはやっぱ、その間(あいだ)で新しいことをしなきゃいけないですよね。だからその間が大事なんですよ。結末ももちろん大事なんですけど、いかに間で飽きさせないかってことが大事なんで。だから、こう、間をちょっと頑張りましょうよ。
小林:まあそうですよね。そうそうそうそう。
夜燈:要は結果じゃなくて、過程が大事っていう話を私はしたんですけど、かいつまんで言えばそういう言葉になるんですけど、それをちょっとやってみましょう。過程をちょっと充実させていきましょう。うん。まあ初心に帰って考えるので、私はよく創作でも初心に帰るんですけど、年中初心に帰ってるんですよ。例えば、何かにつけて必ず過去を振り返るようにしてるんですけど。創作にあたっては、まあそういうことをするっていうか、別にネタ切れでそういうことしてるわけじゃなくて。過去に立ち返るってことが大事だと思ってるからやってるんですけど、まあ、それも結構重要なプロセスだと思うので。やるとまあ、そのそもそもその空白っていうものの、まあ最初に戻るみたいな感じになっちゃうんですけど、空白の着想ってどこから来たのかっていうところをもう一度振り返ることによって、ちょっとごちゃごちゃした部分がもう一度あらわれるんじゃないかなと思うんですけど。そもそも空白っていう言葉自体が空間的だって話をしたじゃないですか。
小林:そうですね
夜燈:そこをそれこそ脱構築する必要があるんじゃないですかっていう話にもなりましたよね。うん。だからそれをさらに脱構築すればいいんじゃないでしょうか? すごい短絡的かもしれないんですけど。
小林:うん。そうですよね。要するにだから、空間的でない空白。まあ便宜上、これはだから、空間的でないということなんで時間的と言わざるをえないっていうこと。そうなんですよね。まあ、わかんないけど、それを時間的と呼んでいいのか? あるいは超時間的な何か、そういうふうに呼んでもいいかも、呼んでもいい。
夜燈:どうにでもできますからね。創作の世界なんでね。超時間的っていうのはいいと思いますよ。結構フレーズ的に。
小林:うん、ただそうだな。概念上でも、超時間的っていうと、それこそ空間化された時間を超えたって感じがなんかしてしまう。
夜燈:なんかその、単位として、何て言うんでしょう?単位を設ければいいんじゃないでしょうか? さっき言ったABCの選択肢未満の選択肢があるっていうのは、その未満っていう単位があるわけじゃないですか。それが重要なんじゃないですか? 要は私が前回の第11回の時に「点が繋がって線になる」みたいなことを言ったと思うんですけど。それみたいな感じですらない、「屑(くず)」みたいなやつなんですよね。多分、ひょっとしたら「屑(くず)」ですらないかもしれない。それが。何らかのこうエネルギーみたいなものなのかもしれない。
小林:あると思いますね。
夜燈:エネルギーの段階があるんですよ、多分。そこである何らかの行動っていうか何かをして時間化されてってるんじゃないですか? そう。なんかすぐそれが一番なんか、その時間っていうものを脱構築するんじゃないですか? もう(笑)いや、なんかその完全に私は、その私が今はまっているドラマに影響されてると思うんですけど、いや、でもそんなような話なんですよ。本当にあのSFなんでね。
小林:時間を超えるってことですか?
夜燈:いや、超えてるわけではなくて。時間っていうかもう何て言うの?もうなんかとある存在がいて、その人物なんですけど、とある人物っていうか、人物の集合体みたいなのがいるんですけど。その人物は時空とか世界線とか関係なく行き来できる、その人物っていうか、そういう生き物がいるんですね。それみたいな感じですよ。それみたいなイメージで。なんでしょうねこう、横軸の時間っていうことを考えちゃいけない気がするんですよ、なんかこの空白について考えるときは。座標とかじゃなくて、もう縦横無尽、x軸y軸とかなんか関係ないとあるものを想像した方がいいんじゃないですか?
小林:分かります。分かります。いわゆる神の視点ですね。
夜燈:そうですね。たぶんそうだと思う。いわばそうだと思う。
小林:そうだ。
夜燈:だから時間は神なんじゃないでしょうか? 知らないですけど、エネルギーだからね。分かんないけど、もうようわからんくなってきた。
小林:難しいのは、だから、例えば、選択肢が無限で、時間的な制限もなく、それが超時間的であるということですけど、時間的にも無限ということは、うん、一つはだからその何て言うの? 全部のっぺりしてしまうっていう
夜燈:そうなんですよ、そうそうそうだ。立体、でも立体になると空間になっちゃうんですよね。
小林:そうそうそう。あ、まあまあ、いいですね。
夜燈:立体になっちゃダメなんです。あくまで平坦でもなければ立体でもなく、あの奥行きもない。エネルギー的な広がり、広がりです。広がり、広がりです!!(笑)いい感じになってきましたよ、ちょっと。
哲学するには人間をやめないといけない
小林:ちょっと待ってくださいね。広がりって結構空間的な表象だと思ってるんだけど
夜燈:あ~、そうか。うん、でもイメージとしては合ってると思うんですよ。
小林:いろんな逃げ方はあって、順序とか、順序順序。
夜燈:うん、前後左右とかそういう何ていうか、方向とか、何かぶつかりがあっちゃいけないんですよ。壁のない状態。取っ払われてる。はい、だから亜空間みたいな感じ。あ、空間になっちゃった(笑)。何ていうか亜種の何か? 要するに莫大な何かですよ。
小林:全く座標軸もなくって、だけどのっぺりしてるんでもなくって
夜燈:そうそう。あの謎の場所っていう。あのポケモンのゲームで言うところのバグ技ででる空間があるんですけど、「謎の場所」ってどこまでも行けるところがあるんですよ。バグ技なんですけど、それと一緒です。それです。謎の場所です。でも場所っていっちゃってるから、もう座標は多分ゲーム上では多分プログラム上ではあるんでしょうね。でもどこにでも行けちゃうんですよね。そういった感覚です。
小林:そうそう、なんかうん。そうそう、誰も知らない哲学者でアンリ・マルディネっていう人がいるんですけど、
夜燈:誰ですか(笑)
小林:フランス哲学でもあんまり言及されることがないんですが、その人の本とかを見ると、例えば「中心なき風景画」とか、そういうことを言ったりするんですよ。現象学的に物事を、世界を見てしまうと、まあ身体というのか主体というのか、言い方はなんでもいいと思うんですけど、抽象的に言うと、やっぱ中心というのがなんかできてしまうんですね。中心ができた時に環境っていうのが出来てしまう。そうじゃないんですよ。
夜燈:あ~そっかだから、中心がないんですよ
小林:そうそう、だから、「中心なき風景」とか、”paysage”みたいなことを言うんですよね。
夜燈:うん、そうだからどこっていう何か起点がない。
小林:そうそう参照軸がないというか
夜燈:参照線がないと捉えられないんですよ。多分。そう。だから観測できないんです。多分。
小林:うん、だから、そうなってしまう。だから、何て言うの? 本当にのっぺりして一つに、こうなんて言うかな? 固まってしまうというか。
夜燈:空間的になっちゃうんですよね~
小林:それって空間的になっちゃう一歩手前なんですよ。一歩手前だから。だから、デリダの脱構築とかっていうのは、今の話で言うと、その中心軸をずっと移動させ続けるみたいなことでしょ? そういう手法なんですよね。だけど、うん、ずっと点がいろんなところに移動してたって点でしかないので、そうではない。だけど、中心点なくしてしまって全部のっぺりした、ひと筆塗りみたいなものになってしまってもダメだし、これはだから思考の、思考の問題よな。
夜燈:助けてくれ……。
小林:表象せずにこれを思考するっていう。
夜燈:それはちょっと人間として……言語を使っている生き物をやめるってことになっちゃうんですけど、大丈夫ですか?
小林:でも、なんかそうでもしないと多分行かないんです。
夜燈:多分……哲学ってそうなのか? 哲学は人間を辞めなきゃいけないんだ。気づいてしまった。やめないといけない、気づいちゃったかもしれない。ちょっと、明け方のエコールを聞いてる皆さんにちょっと申し訳ない。気づいてしまいました。いや、夜燈はやばいことに気付いてしまいました(笑)人間をやめれば哲学ができるようになるかもしれません。
小林:そこがだから先ほどの創作っていうものと、それをこう越えてしまうところの境目ですよね。でも手放してしまうともう戻ってこれなくなってしまう…。
夜燈:やべ~、わたしはそれをした事がなかったっていうか、どうしても言語にしがみついてきた人間なので、言葉が大好きだったのでね。ラングが大好きだった。
小林:その先に行くっていうのがね。
夜燈:そうそうそう、超越しなかったわけですよ、そう。
小林:一回欲しいんですよね。そう。
夜燈:一回、超越しなきゃいけない
小林:で、戻ってくる道筋を。考えとかないといけないっていう。なかなかアクロバティック
夜燈:アクロバティック。でもそれが欲しかったわけですよね。たぶん今までね
小林:そうそう、その話をしたいわけです。この空白の話では。
哲学の難しさは世界そのものの難しさ
夜燈:イヤ、だから結構確信ついてるっていうか、実践的ですよね、完全に。実践的も何も実践してるわけなんですけど。哲学をするということを体現して、教えてるわけですよね。私たちはね。教えてるって言ったら、ちょっと上から目線だけど、あの、ちょっとやってみせですよ。
小林:デモンストレーションですね。
夜燈:やってみせて、ほら、なんかあるじゃないですか。標語みたいなやつ。人は動かじってやつね、あれです。あれをやって、人を動かそうとしてるわけじゃないんですけど、ちょっとやって見せてるわけなんですよね。
小林:そうですよ。だから別に、なんて言うの?
夜燈:悪いことしてるわけじゃない(笑)
小林:だし、具体的なあの提案があるわけでも別にないので。
夜燈:そういうもんじゃないですか、なんか、ちょっとそれっぽいこと。失礼な言い方かもしれないですけど、なんかなんかちょっとわちゃわちゃして、それで終わっちゃうときあるじゃないですか。哲学対話とか多分そうだと思うんですけど、着地点が見えぬまま終わってしまう。なんかそういうふうなことをなんか批評してる人がいたんですよね。そのなんかその哲学書とか哲学の本が嫌いになる人っていうのは、なぜ嫌いになるかっていうと、哲学書っていうのは、帰結点がない、着地点がないらしいんですよ。なんか考えたくせに、「え? そこで終わり?」みたいな。そういう、なんか、よくある、あんまりできの良くないミステリー小説みたいなそんな感じですね。
小林:(笑)まあそうですよね
夜燈:ね、うん、そんな感じで終わっちゃうんですよ。誰が何を言いたかったのか全くわからないみたいなことがある。それがモヤモヤするから、哲学者は嫌いって人が多いらしいんですよ。
小林:これはだから、何て言うんでしょうね。哲学の複雑さとか、哲学の難しさというよりか、世界そのものの難しさだと思うんですけど
夜燈:いやあ、今その空白についてめちゃくちゃ考えた結果、分かったのがその時間とか、その、どれだけ自分たちが言葉に操られているのか? そしてその表象というもの、まあ表現ですよね、表現に実はすごく捉えられてしまっているっていうこと。あと、結構、既成概念みたいなものにすごく捕らわれてしまっている。もうこういうものなんだって。例えば私たちはベルクソンが大好きで、別にベルクソンが大好きなわけじゃないけど、ベルクソンの時間論が出てくるから、ベルクソンのことがすごく好きなんですけどね。それにどれだけ縛られちゃってるんだってことはわかったんですよね。
小林:ああ、なるほどね
夜燈:時間っていうものを空間的に捉えられすぎてたってことはわかったわけです。そういったところからちょっとずつこう、あの、分かりを得ていくわけですよね。自分たちの立場っていうか、自分たちの置かれている場所を理解するというか、立ってるところが分かる。分かるようになるっていうか。地面の感触を確かめるようになるっていうかね。自分がどの土に立ってるかってことを。
小林:そんなことする時間無いじゃないですか。普段。
夜燈:ないです! そんな事したら完全に病院に入れられてしまいます。
小林:だしね。そう、で、出口がないということもわかっているし、やらない。
夜燈:多分それで哲学を勉強している人は死ぬことが多いから、ちょっと死なないでって言われちゃうって。多分こういうことなんだと思います。まあまあ理解しました、私は。
小林:だけどそう、でもね、やっぱり世界とか、あのまあ、存在というものの根幹にこう入り込もうとすると、やっぱそういう方向にどうしても行かないといけない。
夜燈:そう、ある種超越をしなきゃいけないんですよね。しなきゃいけないんですよ。
小林:そうそうそうそう。
夜燈:行けない場所に届かざるを得なくなってしまうっていうか、何かを踏み外さなきゃいけない時期があるんです。一旦ね、ちょっと。だから戻ってこなきゃいけないっていうこと、一回だから戻さなきゃいけないんですよ。自分をね。現世に戻すという。
明け方のエコールが空白の哲学の実践です
小林:実践してるっていう意味では非常にだからこの一時間半の明け方のエコールは、非常に有意義ですね、有意義。普段ないです。こんな時間を作ることが。
夜燈:なかった! 違う脳の回路を使った気がしてすごい今心地よい疲れがありますよ(笑)。よく眠れると思います。寝ますけど、私は。快眠です。だから毎日毎日、これやったら完全に参ると思うので、絶対やらないんですけど、
小林:そうそう参る参る(笑)廃人になります
夜燈:廃人になっちゃうんで、ちょっともうできないとおもう。
小林:いいですね、人間やめるやり方ですね。
夜燈:人間やめる方法っていうのは、お手軽に人間をやめたい方、哲学をするといいと思いますよ。でも、その代わりすごい苦しいので、ちょっと本当に精神に余裕のある方じゃないとできないと思います。
小林:うん。そうですね。だからいや、また戻ってきますけど、空白をなんか充満させるとかっていうイメージに近いことを今、現時点で我々がやってるような気がします。
夜燈:あ~そっかあ!やってんだ!こういうことですね。やってた。
小林:実践してますよね。
夜燈:実践してるってことですね。だから明け方のエコール自体が「空白の哲学」かもしれない。
小林:それはある。
夜燈:可能性としてある。
小林:全くこういうことに関心というかね、それが問題であるということも感じない人からすると、なんて無駄なことをしているんだというふうにしかみえないというね。そういう怖さはありますけど
夜燈:いや、でも無駄かどうかっていうの価値判断っていうのは人それぞれですから、
小林:価値判断をやってないですからね。
夜燈:そうそうそうだから、それに価値があると思った人は聞けばいいと思ってますから。途中でこいつら何言ってんだ頭おかしいぞって思ったらやめちゃいますから、聞くの。それこそあの睡眠中に聴く人になっちゃうと思うんですよね。
小林:睡眠学習をしてね
夜燈:睡眠学習をして、思念体にアクセスして、私たちは情報を直接脳に語りかけてるわけですよね。それで実は記憶野にちょっとこびりついてるわけですよ。
小林:それはやっぱりあの選択未満の選択を
夜燈:そうそうそうだから、やっぱりやってるんですよ。「空白の哲学」を実践してたのは我々だったということですね。
小林:だと思います。
夜燈:だから、答えは見出せましたね。
小林:これが答えです。
夜燈:これが答えですよね(笑)。あの明け方のエコールです「空白の哲学」って(笑)。無理やりな感じするけど、でも、いや、そうなんですよ。たぶん同じ気持ちになってくれると思うんですよ。でも、実際、ちょっと本当にあの病まない程度に皆さんも考えてみてほしいです。「空白の哲学」って、その既存の哲学を使わず考えるとどうなるのか?
小林:うん、そう。だから難しいのは、我々は、何ていうの、本当にフリーハンドで、何も持たずに今こうやってね、急にしゃべってるから、お互い頭フル回転して喋ってますけどね。
夜燈:うん
小林:だから、結構、この時間がちょっと湧いてる(盛り上がってきている)じゃないですか、なんかこの「空白の哲学」についての(議論が)
夜燈:そうですね
小林:このやり取りを聞いてる人達っていうのは、聞いてるだけといえば聞いてるだけですから、どこまでこれを実感できているかっていうのは難しいところではあります。
夜燈:一緒に頭を悩ませてほしいですね。でも、あの別のルートを使わなきゃいけないですけど。その回路をね、ちょっと一緒に考えてみてほしい。そうすれば我々の苦労、苦労がわかると思う(笑)。でも、楽しくてやってるからね。全然構わないんですけど。
小林:そうそう、苦しい面白さ。
夜燈:これが多分、究極のユーモアっていうか、究極の、それこそエモーショナルなんじゃないですかね?
小林:そうですよ。そうそうそう、だから、うん、大事ですよね。本当に情報としてはね、ゼロ、ゼロですから、言ってしまえば。
夜燈:そうですね、本当にそうなんですよね。何も得られなかったっていう。あ、でも何も得られなかったっていうものを得てますから。
小林:レトリック的にはそうですよね。
夜燈:レトリック的にはそうちゃんと得られましたからね。いや、でも皆さんが私たちがさっきまで喋ってきたことを、まあ一時間近くですかね? 話してきたことを聞いてどう思うかが一番興味ありますね。
小林:そうそうそう。
夜燈:今回こそ、本当にちょっとぜひあのマシュマロDM、ハッシュタグなどで感想を聞きたいです。
小林:教えていただきたいですね。
夜燈:どう思ったか? その本当に私たちと同じように、その明けエコは「空白の哲学」を実践していたっていう結論に皆さんも行きつくかどうかやってみてほしい。まじでそうだから(笑)それを強要するようで悪いんだけど。
小林:確かにね
夜燈:まあ、でも、考え方は人それぞれだし、幾通りあってもいいと思う。うん。で、それを夜燈さん、小林さん、いや、こういう考え方もありますよと提案していただいても、全然構わないというか。むしろそれをちょっと頂きたいですね。そっちか~っていうのがあるかもしれないじゃないですか。やっぱ視聴者の方々の力添えが必要ですね。
小林:本当にそうですよ。
夜燈:やっぱ今日ほどなんか今まで11回、毎回充実感ありましたけど、本日の第12回はちょっと今までにないレベルの充実感が、毎回更新されていくんですけど。
小林:そうそう、だから、やっぱりあれですよね。やっぱり、やり方を変えると、頭の使いかたもやっぱりちょっと変わりますよね。
夜燈:今まではなんかもう割と慣れてきて。まあ10回を超えたあたりぐらいから慣れてきて。もうわりといつも通り慣れてきたなあぐらいの、習慣化されてきたなぐらいの感覚だったんですけど。今回はガラッと変えられた感じがして、もう180度違う方向を向かされた気がして、すごくこう襟を正す気持ちになりましたね。
小林:なんかこう言われてこう返すっていう頭の使いかたじゃないですもんね。なんか。
夜燈:もう本当に、あのう、アクロバティックっていう言葉がぴったりだと思うんですけど、そういう使いかたをしてましたね今。やあ、楽しかった(笑)
小林:これこれ、これをだから言語化できれば一番いいんですよね。何を、どうしてどうなっているかっていうのがね。
夜燈:こういうのをかける人が哲学者なんです。
小林:うん、それはそうだと思います。
夜燈:だから哲学者まじで偉大。だからみんな崇めといた方がいいと思う。もう崇めてるからみんな哲学好きなんだけど。
小林:まあそうですね。
夜燈:リスペクトしてますからね、哲学者のことをね。や、こんな哲学者無いわとかいう人も中にはいるかもしれないけど、少なくとも私はこの哲学者マジで凄いとか思いながら、まあそこまで理解できないものも中にはありますよ。ちょっとわからなすぎて、もう何がすごいのか全く分からないとか。でも、そういった感情体験とかっていうものがすごく有意義なんですよ。それが山積していくことが充実。人生に充実感を与えて「よく生きる」ってことを実践できる。これが哲学の醍醐味なんです。
小林:うん、あ、それはもう本当に夜燈さんの言うとおり。
夜燈:そう、だから、哲学が好きじゃない人に何を伝えたいかっていうと、まあ、そもそも今の話の中に哲学成分が多分に含まれているので、なんとも言えないんですけど。「あなたは人生を充実させたいと思いませんか? もし思うのだとしたら、哲学を勉強することをお勧めします」って言うと思います。私、うん。
小林:正しいですよね。
夜燈:だって人生が充実しますから、少なくともそう思ってますよ。うん。
小林:そうですよ。だって、限られた人生ですからね。
夜燈:そうそう、与えられた大事な生ですから、それを全うせずっていうか、その充実させなくて何がいいんだって思いますね。いや、それこそ本当に数年前までは毎日死にたいと思っていて、本当に息も絶え絶え生きてたわけですけど、そんなところにふらっと舞い込んで来たのが哲学だったって。目の前に現れたのが哲学だった。まあ、私の人生の自分語りになってしまうんですけど、いや、でも本当に助けてくれたと思ってますからね。実存に根ざしたあの捉え方を私はずっとしているので、そういうふうにどうしてもいっちゃうんですけど、私はそのために哲学を勉強してますから、「よく生きるため」っていうかね。まあ、気づいたらそうなってましたね。
小林:それはだから夜燈さんの創作にも繋がっていくでしょうしね。
夜燈:うん、そうそうそう。死にたい人の気持ちをこう減らすというか、そういう気持ちで書いてるので、それはまあ要はよく生きる助けをしてるわけですよね。ちょっとおこがましいですけどね。まあ、よく生きれないと思っちゃってる人とか、よく生きるとかいってる場合じゃない人に対してよく生きるって事の素晴らしさをちょっと体現して、こう見せようっていう。
小林:うん。
夜燈:そういうやり方を私はしてるつもりなんで
小林:うん、やっぱ、本質的なことをしてますよね。
夜燈:うん、そうですね。だからまあ出会うべくして出会ったというかね。哲学には。創作の方がはじめで、後から哲学に出会ったわけなんですけど、まあ出会うべくして出会ったものだろうなあっていうふうに思いますよ。
小林:哲学も喜んでますよ。そんなに言ってもらえたら、草葉の陰で。
夜燈:哲学がニコニコしてる(笑)泣いてるかもしれない。ひょっとしたら「え~ん」つって、泣いてるかもしれない。哲学さんも喜んでるから。哲学を我々明け方のエコールは擬人化したがり、したがる(笑)
小林:まあ身近なものでもありますからね。
夜燈:そうそうそう、もう特別視してないって何回も言ってますからね。前々回ぐらいだったかなうん、特別視してないよって話をしたの。そうですね。
(後編に続く)
哲学者の読書会を開催するとともに、noteにてエッセイを精力的に発表している夜燈(よあかり)と、哲学を基礎から学ぶオンライン講座「ソトのガクエン」代表の小林卓也が、さまざまな話題についていっしょに語り合う場、「明け方のエコール」がひょんなことから始まりました。 講義でもなければ、哲学対話でもなく、ふたりの会話の中で生まれる哲学が誰かの下に届くことを願っています。
★夜燈(よあかり)
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☆小林卓也(ソトのガクエン代表)
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