見出し画像

興味

興味、関心、心配。
気になる。

誰が?誰のことを?

目の前のその人に興味、関心があるようで、実は自分に関心がある。
意識されるその対象を心配しているようだが、実は自分を心配している。

自分に興味がある人ほど、外の対象に興味が向きエネルギーを注ぐ。

個体としての肉体は自分自身にのみ興味がある。

だから、他人を見たいんじゃない、元々はひとつのものを、
識別、判別、区別する事で「他」とし、見事に「自」を形成する。
それをやったつもりでいるエゴは満足する。
そしてその巧妙な思考によりなされた分離は、同時に孤独を生む。
やったと言うより、やっちまったな。

そのアイテムが、部屋が、異性が欲しいんじゃない。
それらを見て、自分に都合がいいかどうかを見てる。

自分を見てる。自分しか見てない。

そこに何の問題もない。
プリインストールされたソフト。
機能しているなら健常とも言えよう。

外の対象は捉えやすい。
感覚器官はそのために存在する。
そしてこんな簡単な話は、もう既に大昔からバレてる。
現代となっては、捉えてしまうこの感覚器官を巧みに利用されてる。
例外なく私もこの感覚器官を利用され、強い刺激を長い間浴びてきた。
もう麻痺してるんだろうし、飼いならされている。

人の生理的な癖や感覚器官など機能を利用している人々に対し、
成功しているだの、勝ちだのと呼ぶ声を耳にする。

しかしその者達こそ、強烈に自分に興味がある。
自分自身に注がれる興味の分だけ、他との分離が強固で、他には興味がない。
孤独も強くなり、その分名声や称賛、評価を必要とすることになる。
これにも善悪はない。ただそうであるだけ。
みんな役目がある。


外の対象に飽きて興味関心がない時、一体何が起きてるのか。
もう自分に飽きて興味がないのだろうか。
長い間あれこれ興味を向けて、奔走し、エネルギーを注ぎ消耗しすぎたのだろうか。

意識される対象をどれだけ手にして、集めて、積み上げても一瞬で崩れ去る事に気付いてしまった以上、一体何に興味が向くというのか。


何にせよ、
興味がなく退屈な状態の時間は長く、
興味が一点に集中している状態の時間は短い。
そして、その一点以外の空間や物体は世界に存在しない。

睡眠の際、夢を見たり、夢の無い熟睡は、意識という唯一のエネルギーをリセットしてくれるかのようだ。

そして目覚めた後の意識下の活動は、プラスやマイナスの電荷を帯びたエネルギーとして循環し、ひとつのニュートラルな世界を形成する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?