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「読まされてきた」ものを越えて|『Lilith』川野芽生(②/③)
あなたが何んな動機から神話を譯して御覽になったかはまだ解らないが、恐らく文學を研究する人の手引草として許ではないでせう。今の人の手にする文學書にはヴィ(原文:ヰに濁点)ーナスとかバツカスとかいふ呑氣な名前は餘り出て來ないやうです。希臘のミソロジーを知らなくても、イプセンを讀むには殆んど差支ないでせう。もつと皮肉にいふと、人生に切實な文學には遠い昔しの故事や故典は何うでも構はないといふ所に詰りは落ちて來さうです。あなたもそれは御承知でせう。それでゐてこんな夢のやうなものを八ヶ月もかゝつて譯したのは、恐らく餘りに切實な人生に堪へられないで、古い昔の、有つたやうな又無いやうな物語に、疲れ過ぎた現代的な心を遊ばせる積もりではなかつたでせうか、もし左右ならば私も全く御同感です。
第65回「現代歌人集会賞」受賞挨拶
『Lilith』で標記の賞を受けた川野は、受賞者の挨拶の場で「美しさ」について語った。歴史上数々の芸術が女性を美のアイコンとして取り扱ってきたこと、美しいものは鑑賞者に絶えず搾取されるものでありそれを若い女性として生きる中で強く感じてきたこと、自分の歌が「美しすぎる」のではないかと思ったこと、搾取されるものは人間のみならず自然も含まれること、美の価値観も根本的に差別的であり言葉の美しさを求めることのみがその暴力性から逃れうるものではないこと、それらに触れつつ、以下のように続けた。
歌を続け、次第に上達し、自分の望むような美しい歌を作れるようになってきて、私はそれがほんとうに美しくていいのか、と思うようになりました。
そんな迷いの中で、だからこそ、今まで作った歌をひとつにまとめ、歌集という形にしたいと思いました。
これから自分がどこに進むのか、どこに進んだらいいのか、わからなくなったからこそ、次に進むために今までのものを完成させたかったのです。
それでも、私の拠り所はこれからも美なのかもしれません。
美しさを愛すること、美しいものを作ること、それをやめなくてはならないと言うつもりはありません。ただ、美を求めることの罪深さを、葛藤を、見つめ続けなくては次に行けないと思うだけです。
これから自分がどこへ向かうのかわかりませんが、これからも見守っていただければ幸いです。
前稿でも触れたように、川野の創作の動機は「自分が一体なにを読まされてきたのか」という問いだった。この受賞挨拶を一読しても、その問題意識は絶えず川野の心中に渦巻いていることが分かる。川野の芸術的な背景が深く広いことは、その作品群の中にもよく現れているが、それだけに、それまで無邪気にしていた美しいものを愛でるという行為が、暴力性を伴うものだということに自覚的になったとき、川野はどう思ったのだろうか。
まずは、『Lilith』第2章「out of」の作品を見ていきたい。
神話の世界への憧憬
みづの青火のあを 誰も産みえざる子らをかはりに夜は産み落とす
きさらぎの湖慄へたり 漣の白とはみづに降るさくらばな
死ののちもそを閉ざしやる手はなくて竜のまなこは空となりにし
転生のたびあをまさる空にして果ては黒白のいづれか知らぬ
さくらばなといにしへ呼びし 瀝青のおもてに浮かびくる病斑を
はなびらを木々が見捨ててゆく春にあなたの嬰児なりき 告げてむ
本章の作品に実景をそのままに描いたものはほとんどないといってよい(「老天使」中の「傘の骨は雪に触れたることなくて人身事故を言ふアナウンス」などは非常に例外的といえる)。自然の風物の中にある美しさは認めるものの、それらをそのままに賞美することはなく、それらが真にその美しさを示す瞬間を敢えて見出そうとする。自分の意志で選び取った美しさ以外を拒否するような姿勢すら感じさせる。
「転身譜」の作について。空を映して青く光る「水」と、ガスが燃焼することによって生じる青い「火」とでは、その色彩はまったく別のものである。そうした乖離を媒介に「誰も産みえざる子」の意味を際立たせているが、何か具体的なものを書いているわけではなく、忌み児の抱える屈託や混沌を表現しているように思う。
「舞曲」についてはより幻想的だ。「竜」の死によってその「まなこ」が空(これを「空ろになった」という意味で読むのであれば完全に誤読になるが、竜という壮大な創作物の死が空を創生したという神話を読み込むのは過剰だろうか)となり、その色が黒か白かもわからなくなってきたという物語に、(「櫻」という旧字からの連想により生まれた)桜の木々の棄児という空想が加わる。「瀝青のおもて」は黒い空つまり竜のまなこを映した水であり、そこに浮かぶ花びらは竜の「病斑」と同視しうる。作中主体は、竜の臨終を目の当たりにして、ちょうど、花びらを見捨てた桜の木々に告げるようにして、自身が「あなたの嬰児」であることを告げようとする。川野作品の主体が鱗を持つものであることは、前稿でも触れたとおりだ。
どこからこうした物語は湧出してきたのだろうか。川野の想像はさらに膨らむ。
相討ちのわれらのかばね擁 きあふ樹や伝承の苗床として
人の世の春に鱗は散りしけりとほき代にまた竜を生むべく
特に解説は不要であろう。神話の世界の奥底まで分け入り美しいものを感じようとする姿勢と、美しいと感じたものを顕現させようとする強い意志が、壮麗な天井壁画の前に立ちすくんでいるような、長大な物語の結末の後に身動きができないでいるような感覚を呼び起こす。
本書の中でも繰り返し登場する「竜」を始めとして、川野作品には神話的モチーフ(単語としてはもちろんのこと、「ラピスラズリ」中の「狂恋を逃れむがため木となりし少女らならむ花のなき森」も「アポロンとダフネー」だ)が多く出てくる。川野が愛した芸術作品の中でも、古代の叙事詩や神話は特別な地位を占めるのだろう。(ちなみに、浅学の身ゆえベオウルフについては何も知らなかった。英文学の最古の伝承のひとつだという。今回も、wikipediaには大変助けられた。)
「うつつより多くの星をもう夢に見てしまひたり」
葩は花にはぐれてゆくものを夢ゆ取り零されし残月
丘の上に老天使翼をひろげゐてさくら、とひとはそを指さしぬ
うつつより多くの星をもう夢に見てしまひたり 桟橋朽つる
神話によって喚起された想像力を用いて、美しいイメージを作り出していった川野は、その想念が強すぎるあまり、現実に存在するより多くの美しいものを見てしまった。そしてその想像力からは自分自身も逃れることはできない。美しいものをひたすらに志向することは、反対に美しくないものを遠ざけることにもつながる。
手をつなぎねむれば城を出たることなきわれわれに火の馬の夢
鳥籠のやうなる白きサンダルに足は翼であればをさめつ
片割れよ夢をみるたび夢に生れ角や翼を得てわれを去る
地を踏む天馬の脚のしづけさにわが来し方をひとは問ふなり
鐘楼の飽かず降らする声ありていまだ世を滅ぼししものなし
春よわれらに再演あれば幻獣と狩人として巡り会はむを
いずれの歌も、ここではないどこか、または自分ではない何かへと思いを馳せているものだ。神話の中にある美しさや崇高さは、少なくとも今この場所には存在しない。城や鳥籠に押し込められて、本来あるべき角や翼は生じ得ず、満たされない状態にもかかわらず、この世は未だに漫然と存在し続けている。「out of」(〜の外へ、〜ではなくという意か)という表題は、想像の世界と違いすぎる現世を、どう受け止めるべきなのか苦しんでいることを意味しているように思う。
Lapis-lazuliみがけりからだ削ぎゆかばたましひ見ゆ、と信じたき夜半
美しいものを求めて想像力を働かせる余り、見たくもないものを見てしまうということがある。生身の人間をどれだけ掘り下げていったとしても、決して「たましひ」など見えてこない。奥底にあるものが美しいものかはわからないが、今の姿とは異なる本当のものが見えてくるはずだ。ところが、想像力によりそこまで見通した作中主体は、美しい「たましひ」というものが人間の中にないことを知る。冒頭に挙げた漱石の序文から借りれば、そこには「餘りに切實な人生」があっただけかもしれない。
こうした現世の人間の限界は、神話の中にも現れる。神話には涜神者が多く出てくる。そもそも、神話は、サルモネウスというゼウスの真似事をしたペテン師などが典型的だが、神と同等の力を持とうとしたものに対する報復というシチュエーションがほとんどだ。その悲喜劇自体に美しさを見出すことも可能かもしれないが、こうした観点は、人間を相対化するという意味でも川野に影響を与えているのかもしれない。
「夢のやうなもの」ではなくて
世間は世知辛い、美しいものはもはやこの世には存在しないかもしれない。そういう考えに行き着いたときに、神話は逃げ道として有効なのかもしれない。「古い昔の、有つたやうな又無いやうな物語に、疲れ過ぎた現代的な心を遊ばせる」程度に、神話を求めるということも選択できたはずだ。そして、野上のように、それらを翻訳することによって、多くの人に安らぎを与えることもできたはずだ。
しかし川野はそれを選ばなかった。川野は、美を単なる消費物とすることのみに留まるべきではないと考えたからではないだろうか。「美を求めることの罪深さを、葛藤を、見つめ続けなくては次に行けない」と歌壇のお歴々を前に高らかに言い放った川野にとって、芸術について考え続けることによって培われた想像力は、単なる逃避・安らぎのための手段ではないはずだという信念があったのだろう。
それでは、川野はその力を武器に何に挑もうとしているのか。それは、川野作品に徹底している「ここではないどこか」を志向させるものの根源的な原因、男性中心的な異性愛至上主義である。これまでのいくつかの歌の中でも触れられているところだが、第三章「the world」において、いよいよその問題は顕在化することになる。
その価値観は、変革不可能な常識として何層にも折り重なり、世の中に蔓延するコードとして多くの性愛的な物語を量産してきた。また、それを嫌悪する者たちも、別の物語を自ら選んでいるようでいて、その実は選ばされてきた。こうした状況のことを、川野は「読まされてきた」と表現したのだろう。
川野は、こうした状況を打破するべく、自らの想像力を恃み自力で物語を編もうとしている。ときには神話の力も借りながらも、自らの言葉によって、特定のコードに頼らない作品を作ろうしている。それらは、難解と評されることもあれば、要約し得ないこともある。川野作品を語る難しさは、ここにあるのだろう。
川野作品は、自力で昇天してみせようとしている竜のようだ。それに意味を見出だすことは無粋なのだろう。ただ、その残像のしなやかさが鮮烈に読者の瞼に刻まれる。この手の本に巡り会えることは本当に稀なのかもしれない。
最後に本書読解の支えとなった外山滋比古の『知的想像のヒント』に引用されている文章を引いて本稿を終える。
哲学的思考は、まず、不完全な、しかし、熱烈な新しい概念から出発し、しだいに厳密な理解が得られるようになり、やがて最後に、言語が倫理的洞察に及ぶようになる。そこで比喩がすてられ、文字通りの記述がこれに代わる。真に新しい着想は、それまでに用いられている言語では名称がないのだから、最初はつねに比喩的記述を借りなくてはならない。