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鱗ある者たちへの歌|『Lilith』川野芽生(①/③)
わたしが失語にも似た状況に陥ったのは、大学という学問の場に足を踏み入れたときで、そのときはじめてわたしは、自分が特定の性に、言葉や真実や知といったものを扱い得ないとされる性に、分類されることを知ったのでした。しかしわたしが愛した神聖な言葉の世界に逃げ帰ろうとしてみると、そこには空虚で、美しくて、誘惑のための言葉しか発しない〈女性〉たちが詰め込まれていて、わたしは一体いままで、何を読んでいたのでしょう。何を読まされていたのでしょう。
異能
川野芽生を特定のジャンルで語ることは難しい。創作者としてのスタートは、掲出歌集の標題にもなっている連作「Lilith」により第29回歌壇賞を、同書により第65回現代歌人協会賞を受賞したことにあるといってよい。しかしその創作は短歌にとどまらず、SF的要素の強い小説集『無垢なる花たちためのユートピア』、幻想的な世界観の短編集『月面文字翻刻一例』と(連作短編風な)長編『奇病庭園』、そして第170回芥川賞(日本文学振興会ホームページの記載によれば、「新進作家による純文学中・短編作品のなかから、最も優秀な作品に贈られる賞」とされている)の候補作となった『Blue』、「現代短歌」上で連載された評論を集めた『幻象録』、ネット上で連載したエッセイ集『かわいいピンクの竜になる』などがある。こうした創作活動に加えて、公開の朗読(『奇病庭園』朗読ライブ「耳に就いて」やロリィタ短歌朗読ライブ「衣装箪笥のアリス」)を行ったり、人形作家・中川多理とのコラボレーション『人形歌集 羽あるいは骨』を刊行するなど、ジャンルを超えて精力的に活動している。大仰な言い方をすれば異能なのだ。
多くの作家は、特定のジャンルによって表現される。もちろん、川野のように多様なジャンルで活躍する作家もいるし、特定のジャンルに特化してその世界で大傑作を生む作家もいる。推理小説、歴史小説などいった分類は、どちらかというと、読者向けに存在するものだ。自分が特定のジャンルを好むことを確信している読者にとってこうしたラベリングはありがたい。本を売るにしても、そのターゲットが明確である方がいいだろう。
その点、上述したように、川野は特定のジャンルに括り難い。むしろ、川野作品の多くは、そうしたラベリングを拒むようですらある。それでいて、てんでバラバラな作品群となっているのかといえば、そうではなく、その中心には絶えず川野自身の思想や理念、美意識が力強く存在する。その多様な作風を統括するものは何なのか。
7月29日、川野の第二歌集『星の嵌め殺し』が刊行予定である。これを機に、川野作品の原点である『Lilith』を読み、その秘密を探っていきたい。なお、同書の章立てに即して①「anywhere」、②「out of」、③「the world」と、日を分けて掲載していく。
剥がれ落ちる鱗
川野短歌は、一読をもってその意味するところを飲み込むのが難しい。縦横に用いられる比喩、幻想的な語彙、語られない余白、川野の表現は幾重にも技法の衣をまといその本体を容易に現そうとしない。それは、川野が特定のジャンルに括られることを避けるように、越境的な創作活動を行っていることにも重なって見える。そして川野自身も、自らがどのような作家となり、どのように表現をしていくのか、断定せず、それを模索し続けているようにも感じる。
ぬばたまのピアノを劈きひとの手はひかりの絡繰に降り立ちぬ
朝火事を思ふしづけさに弾き終へて楽器の胎へ消ゆるきみかも
きみは何に祈りてきみと生れたまひこの白昼もきみを光らす
きみはつね郡鳥のごとき黙曳くにわれが散らしてしまふその鳥
みづからの竜頭みつからず 透きとほる爪にてつねりつづくる手頸
ピアノを弾く「きみ」について歌う一連の中で、作中主体は「きみ」との隔絶を見ているように思う。自らを捧げる特定の芸術を持つ「きみ」は、「楽器の胎へ消ゆる」ように見えるし、また、何かを感想でも伝えようとすれば「われが散らしてしまふその鳥」となる。一方で、それに「光」を見る主体は、どこか調子外れだ。「竜頭」とは腕時計などに付いている、時計のネジを巻くためのつまみのことだが、これが見つからない。何か調子が合わないのだけれども、その調整の方法が分からない。手首をつねってみても何も変わらない。頭を悩ませ続ける主体の姿が見えてくる。
ここに用いられた「竜頭」という比喩は、短歌に限らず、川野作品を通じて非常に重要な比喩のように思える。人には「竜頭」などという機能はない。これが比喩であるにしても、調子が狂うことを意味する表現は、他にもいくらでも可能である。ここであえて「竜頭」を選んだというところに、世界と自分の間にある違和感に気づいて、おかしいなと頭を搔いているところから落ちる、一片の竜の鱗を見るような思いがする。かつて竜だったものが本来あるべき姿へと変貌を遂げることのさりげない表明という隠れた物語を読むのは、想像力の飛躍だろうか。
転生の記憶=人生何周目?
前項で川野作品には語られない余白があると書いたが、それは未踏のために書くことができなかった単なる空白ではない。川野自身がつぶさに踏破して詳細に調べ尽くしたものを、照準をぐっと絞った形で表現しているだけだ。つまり、拡大もできれば縮小もできる。先ほど触れた、隠れた物語は、川野にとって織り込み済みのように思う。川野短歌には常に、それ自身が含む物語と、それ自身が含まれる物語が明確に存在する。
たとえば下記のような作品がある。
しろへびを一度見しゆゑわたくしは白蛇の留守をまもる執政
鱗あるものらがからだを脱ぐやうな花の散りどき、夢の醒めぎは
いずれも現実のできごとを軸にしながらも、作中主体を囲む物語の存在を感じさせる。一首目は、広い庭を抱える隣家が取り壊しになるのを幼子が見届ける一連の中の作。子供心に白蛇信仰に惹かれた者のあどけない神話化が見られ、その想像力が膨らんでいくところに作品の広がりを感じる。二首目は、夢が醒める瞬間以外は比喩的ものだが、「鱗あるもの」が複数あるということ、そしてそれらが鱗ある姿でいられるのが一時的であること、など、語られているものに多重性があることが示されている。短詩ゆえに語ることはできないが、明らかに背後に抱えている世界がそこにはある。
そうした対象に隠れた物語を見出す視線は、痛みなどの身体感覚にも向けられる。
六月のあなたの痛みを牽きてゆく海馬、その荷へ花を放らむ
鍛冶神の打ちし頭蓋か天上に鎚ふるはるるたびに痛めり
六月の痛みがどのようなものなのかは想像するしかないが、たとえば梅雨の時期の低気圧・高湿度による神経の痛みと考えてもいいし、ジューン・ブライドなる異国の風習を押し付けてくる世間の暴力的態度からくる痛みと捉えてもいい。いずれにせよ、重要なのは作中主体のそれらへの向き合い方だ。記憶を司る脳の部分であるところの海馬を、その文字からの連想で荷車を牽引する馬と捉え、そこに花を投げ入れるという。それが具体的な解決になるかどうかは明確に語られない。しかし、やはりここにも隠れた物語が存在する。「あなた」がどのような痛みを抱えていて、そこに花を放ることがどんな意味を持つのか、語られない物語があるように思えてならない(そして、そうしたものが形を変えて短編集などに現れていて、答え合わせになったりする。少なくとも私は、一読目では本書を全く理解できなかったが、前掲の『無垢なる花たちのためのユートピア』『月面文字翻刻一例』を読んで、その世界観が少しだけ分かるようになった)。二首目は分かりやすい。作中主体は頭痛を天上で鎚をふる神々の手によるものだと解釈している。それは作中主体が天上と繋がりのあることを思わせる。
日常の中に幻想を見出し、隠れた物語を探し出す視線や、与えられる痛みさえも解釈しその原因を睨み返すような手法は、本書の帯に山尾悠子が寄せた「何度も転生した記憶があるのに違いない」という文章の通りのように思う。現実を数多の方法で解釈をすることができ、それによって痛みを癒そうとする姿は、今風に言えば「人生何周目?」といった趣がある。「竜頭をうしなふ」で勝手に読み込んだ竜の転生譚も、周囲との波長が合わない者(鱗を持つ者たち)に必要な神話だったと考えてもいいだろう。
こうした幻視の力によって現実を解釈するという点で関係のありそうな部分を、川野の評論集『幻象録』に引かれたトールキンの文章から引用する。
逃避という言葉を誤用する人びとが好んで「現実」と呼ぶもののなかで、ふつう逃避は明らかに役に立つし、勇敢な行為ですらあると思う。[……]
自分が牢獄にいると気づいた人間が外に出て家に帰ろうとしたからといって、なぜ軽蔑されなくてはならないのだ。脱獄できない場合、看守や監獄の壁以外のことについて考えたり話したりして、なぜ悪い。外の世界が直接見られないからといって、囚人にとって外の世界が存在しなくなるなんてことはあるはずがない。
加えて、隠れた物語という点にも関連して、少し引用をしておく。下記で語られているのは小説についてであるから、そのまま短歌の解釈に適用することはできない(何なら「縮小できない」とまで言い切られている)。しかし、短歌を含めた川野作品を読む中で、大きなヒントとなったことには違いない。
何かについて、ではなく、その何かというのがなんなのかを劇的な場面の構築そのもので語る。それが小説なのだと、オコナーは方法について信念を抱いていた。だから、「物語の意味」では、「ある物語についてその主題を論じられる場合、すなわち物語の本体から主題を引き離せるとき、その作品はたいしたものではないと思っていい。意味は、作品の中で体を与えられていなければならない」ともいうのだ。さらに「優れた物語は、縮小できない。つねに拡大されるだけである。中にますます多くのものが見えてくるとき、いつまでも理解の及ばぬ部分を残すとき、その物語はよいできである。小説に関しては、二足す二はつねに四を超えるのだ」と、述べている。
戦うべきもの
周囲と調子が合わない者が幾多の解釈を以て現実を生き果せてきたという物語が行き着く先はどこだろうか。それは少なくとも、今ここにいる場所ではない。
幻獣のかたちを都市にさらしつつわが呼ぶまではそこに在れ、雲
「アヴァロンへ」という一連は、(論文を書くためだろうか)おそらく大学図書館で過ごしているところから始まり、モリス商会の宗教画タペストリー、ラファエル前派などへの言及の後、海へのシーンと切り替わり、掲出した歌で締めくくられる。この一連に統一的なテーマを見出すことは私の力不足でできなかった(全体として「アーサー王物語」をなぞっているのかもしれないが、背景知識を欠いており読み込めなかった)が、本章の最後にふさわしい短歌で作品が終えられている。
都市上空に浮かぶ雲に幻獣の姿を見出し、それに向かって呼びかける姿は、毅然となにかに立ち向かっているように思える。その呼びかけがどのような意味を持つものなのかは明らかにされないが、戦い疲れたアーサー王を迎える臨終の地としてのアヴァロン島という題とは裏腹に、この作品は明らかに、「逃避」を目的としていない。周囲との違和と幻視を抱える者が胸に大きな使命感を抱きつつ、いつか飛翔すべきところとしての天に向けて懸命に吠えている。戦いの日を待ち続けている。
それでは、作中主体、ないし川野自身にとって、戦うべきものとは何なのか。冒頭に挙げた本書のあとがきにあるとおり、川野の創作の動機は「自分が一体なにを読まされてきたのか」という問いだった。川野は飛翔してみせることによって、なにを読者に残そうとしたのか。そうした点は今後の稿で触れていきたい。
まずは今月末刊行予定の第二歌集を楽しみに待ちたい。