大人の「現代文」105……個人主義について
豊太郞とはどういう人物か
前回、『羅生門』『舞姫』『こころ』に関して、個人主義ということばで語りました。ですが、この「個人主義」ということば、ほんとうにくせ者だと思うのです。というのも、私、実は「個人」「主義」などというものは昔も今も日本にはないんじゃないかなと思っているからです。むろんことばとしてはありますが、このことばはいまだに日本には根付いていないと思っているからです。
先日テレビを見ていて、ペリーの黒船の蒸気船に度肝を抜かれた往時の日本人が、十数年後には独自の蒸気船を作る技術を身につけ、実際に佐賀藩では日本初の蒸気船を作っていたということ知り、さっすが!と思ったのですが、物の技術はすばやく吸収できても、「個人主義」のような内面はそんなに、簡単に「創造」できるものではありません。
明治の当初、この事実に真っ先にぶつかったのが、「人間」を創造する文学者たちでした。でも、いくら新しい時代の新しい生き方を掲げても、そもそも心のあり方などは、日々の人間関係自体に浸透する血のようなものですから、昨日まで「おーい熊さん」「何だい八公」という会話をしていた人物が、今日から手のひらを返したように「熊さんちょっと話していいですか……私個人としては……なんですが」などという会話をいきなり始めるわけにはいきません。新時代の「人物像」を小説にフィクショナルにかつリアリティを持って描かざるをえなかった文学者の苦悩は大変なものがあったと思います。
そのある意味実験人物のような人物が、フィクショナルであると同時にリアルな存在でもある超エリートの豊太郞なのですが、彼がリアルな日本人感覚に従い天方伯に日本に帰ると即答して、はてそのことを帰宅してエリスになんと言ったからいいか迷いに迷って、極寒のベルリンをさ迷う姿は、「個人主義」というフィクショナルな「新しい生き方」を選択した彼に「新たな時代精神」が残酷なまでに襲いかかる圧巻のシーンと思うのです。
この場面、一見豊太郞の情けなさの正に露呈される場面なんですが、逆に言えば、鷗外の、文化の本質を見詰める冷徹な知性が、遺憾なく示されている場面でもあると思うのです。明治二十年代に、すでに、「個人主義」の不可能性を見抜いていた森鷗外は本当に日本に誠実な知の人であったと思うのです。