大人の「現代文」92……『こころ』ここが一番美しいと思ってます
謝罪の意味するもの
昨日の続きです。私見ですが、私は『こころ』全編で、この部分が最も美しいと思っています。こころに響くのです。再掲しますね。
彼(K)は「病気はもういいのか、医者へでも行ったのか」ときき
ました。私はその刹那に、彼の前に手をついて、謝りたくなったの
です。しかも私の受けたそのときの衝動は決して弱いものではなか
ったのです。もしKと私がたった二人で曠野の真ん中にでも立って
いたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で謝罪したろ
うと思います。(第一学習社 教科書 下四十六)
しかしもし先生がKにお嬢さんとの婚約を出し抜いたことを告白「謝罪」したら、この『こころ』という小説は名作として成立したでしょうか?Kは潔く諦めたでしょう。仮にその後あのように死を遂げても、それはごく平凡な一物語に終わったでしょう。幸か不幸か、謝罪しなかった、もしくは「出来なかったゆえに」先生は一生自分を責め続けるのです。死ぬほどに……。そして「それ」こそ、正に漱石が我々に問いかけてくる重いものをはらんでいるのではないでしょうか?先生はこう語ります。
しかし奥には人がいます。私の自然はすぐそこでくい止められてし
まったのです。そうして悲しいことに永久に復活しなかったので
す。(同)
先生がKに謝罪すべきことを「自然」と表現していることに、注目したいのです。逆に言えば、謝罪しないことは「不自然」なのです。ではこの場合、一体何に対して「不自然」なのでしょうか?この「自然・不自然」の意味するものは一体何なんでしょうか?「人として」の根源的な倫理に対して「不自然」なのではないでしょうか?