2020/05/15
起きた。二度寝はしなかったが寝坊した。会議には十分間に合う時間であったけど、急ぎには間違いなく、朝食は例の固定携帯食のフルーツ味で済ませた。フルーツ味と銘打っているものの、リンゴとかではなく、レモンの皮のような味がする。なぜ数あるフルーツからそれを選んだのだろう。レモンの皮の苦味がたまらないという根強いファンがいて変えられないのだろうか。
午前の会議(近接)はよかった。前回よりも、若者たちがチームの一員として各自、主体的に動いているさまが見えてよかった。(デフノートでは「リアルに会う人のことを具体的に書かない」ポリシーを採用しているので、月並みな形容となってしまうのをお許し頂きたい)「男子、三日会わざれば刮目して見よ」とよくいう。この「男子」とは、現代ではもはや性別を問わず「志を立てた人間個人」の総称として使ってよいだろう。私も持てる精一杯の智能と経験で彼らの日々新たなる気迫に応えた。
午前の仕事が長引いて、研究室のミーティングに間に合わない事態が発生😇 詫びのお手紙(メール)を送って正座反省待機してます。そんなところです。
— でふ (@defplus) May 15, 2020
午前の会議が大いに盛り上がってしまい、1時間超過した。急ぎ家に戻ったもの、研究室の遠隔会議(Zoom meeting)の閉幕にも間に合わず……。先生曰く顔合わせ程度のものだよとのことで少し溜飲を下げたものの、こうなるなら会議そのものを延期してもらえばよかった。また顔を忘れられないようにせねば。
ゼミ開催の機運も盛り上がっていただけにミーティングに参加できなかったことは寂しい。また、ラーメン屋も当分は昼の部だけで、夜の部の営業はなく、夜に食べに行く予定が崩れた。こういうもの総してを失意というのだろう。失意にあたっては泰然とあれ。という指針がある、失意のときも(山のように)どっしりしていろという意味である。何も居直って偉そうにしろという意味ではない。山には偉いも卑しいもない。ただ、存在しているだけだ。
いろんなことがありますけど、主軸は保ちつつ……僕はまず数学書の写経と英単語アプリとヒザ曲げ立位体前屈をやって、あとなるべく二度寝しない、ですね。毎日やっていきます。
— でふ (@defplus) May 15, 2020
それをふまえて、こう言っていたのだった。自分が山のように存在するなら、いつもやることを続けることだ。ゼミもラーメンも、自分が一日一日をやり遂げる先に最高の形で待っていてくれるだろう。午後の予定がなくなった分、英単語や写経などは早く動けた。加えて、先日購入したいくつかの「数学をやるために買ったもの」の一部が早くも今日届くというので受け取り、組み立てなどを行った。
定額給付金(を見込ん)で買ったもの4つあります。そのうち座卓と座椅子以外の2つが先に届いたので紹介します。
— でふ (@defplus) May 15, 2020
1つめ! ノートパソコンとかキーボードとかiPadとか置ける台! ガススプリング式でチルトも水平から45°までかかる。猫背対策! pic.twitter.com/wJUX1bssiS
— でふ (@defplus) May 15, 2020
iPad Pro (12.9inch) を置いてこの広さの余裕なので、腕を外に逃しつつペン書きできる。スプリングで高さを固定してしまえば、上で書いててもほとんどブレない。その高さのアルミの塊の上にiPadを置いている感覚で使えた。 pic.twitter.com/lKyVTLdGQ9
— でふ (@defplus) May 15, 2020
2つめです。 pic.twitter.com/L5TAoyxihf
— でふ (@defplus) May 15, 2020
モニターアーム界のフルアーマーΖΖガンダムことエルゴトロンHXです。最強フグパワーアームなので43型モニターが軽々と持ち上がります。
— でふ (@defplus) May 15, 2020
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ツイートに頼りすぎてしまったが。一目瞭然なので、画像の力を借りる。このとおりである。これを広い座卓に配置して初めて理想の環境が整う。いまは狭い机に無理にデプロイしているため『密』である。すなわち窮屈な使い方をしている。間・空白が大切だと考える。それまではいっときの不便さを引き受けて楽もう。上記のアームを組み立てていたら、座椅子は明日到着すると連絡があった。楽しみである。
座卓はやはりというか大物なので、届くのは翌週となるだろう。とにかく広い天板の座卓を買った。自分のウイングスパン(左手の指先から右手の指先までの最大距離)は180cmほどあるので、その横幅まで机が広いことにはメリットが有る。そこまでは手が届くからだ。(いや、ここは世界観を守るとヒレが届くというべきか)
ほとんど感性の問題なんですけど、僕の場合、リアルの知り合いでかつ近々顔を合わせる人に見られている状態で、小説をネットに置くのはすごく恥ずかしい。堂々と出せる人、素晴らしいと思います。絵描きさんについても同様です。
— でふ (@defplus) May 15, 2020
日記は……日記はいいんですよね。なんだろう、日記はあまり実際に会った際の僕と印象の乖離がない、と自分では評価していているんですけれど、小説のような本腰の創作だと、お前こういうこと言うやつだったか? みたいなのも掘り起こしますよね……。
— でふ (@defplus) May 15, 2020
これも間・空白の問題である。昨今、対人社交距離(social distance)という言葉が流行っているのだけど、それに乗るならば、内心社交距離(mental distance)というものが存在すると感じている。
日記でも創作小説でも書いたものは、確かに全世界に向けて配信されているのだけど、実質アクセスする人の数はそれほど多くないと見込まれるし、公開したことによって自分が受ける反応は、いくつかのスキ・いいねであろうと想像されるし、実感覚に迫って自分を揺るがすフィードバックは届かないだろうと予測している。
そういう、ある意味の自分が書いたものの反応の鈍さへの期待(=内心社交距離)が、自分の内面を思い切ってさらせる安全機構のようになっているのでは、という仮説だ。例えばいわゆる裏アカウントというのは、内心社交距離を非常に大きくとったところにあるといえるだろう。
創作とっては、適切な内心社交距離はあるのだろうか。例えば、顔を出している作家はみな内心社交距離を縮めた上で、心を晒して作品を書いているのだとすると、それは凄まじい胆力だと私には思える。もしくは完全に技巧・技術によって作品を書いて一切の内心をさらさない執筆法の使い手である可能性もあるが……そんなことは可能なのか?
- 英単語 1000単語
- タケバキの写経 1ページ
- ヒザ曲げ立位体前屈 4分
- 睡眠時間 11−7.5 (8時間半)
- 問題を解く(2.8/17)週末解けるといいな。
今日は、日記なのか疑わしいほど、考えを述べるデフノートになってしまった。しかし、日記ではなくデフノートなのだからそれもいいだろう。明日の昼はラーメンを食べに行くかも知れないし、そうでないかもしれない。週末、おいしいものを食べていきたいね。
(2020/05/16 へ 続く)