2020/09/18
起きた。今朝ははちみつトースト。最近、ずっとジャムに見えていた瓶が、実はちょっと高級なはちみつだったことに気づいてしまい、これに文字通り味をしめて、はちみつトーストを量産している。もちろんおいしい。少し香ばしく、キャラメルのような風合いがする。
割と早い時間帯に起きてこられるようにはなったものの、昨日の「混線」の話がまだ頭を渦巻いており、動きは鈍い。低速は低速で楽しむしかないかなと思っている。
結局のところ「糸」のメタファで、問題を取り扱っているところが、今回の(マイ)テーマの核心である。という気がしている。実家が糸の仕事をしているところと、多少なりとも縁があるかもしれない。また「赤い糸」の伝えに端的であるように糸は縁の象徴である。
村上春樹氏が言っていたことに「機会を与えられて小説を書くことになった」という言い回しがある。僕も数学に関しては「機会を与えられて数学をやることになった」としか言い表せないくらい、偶然でも必然でもあるような縁によって数学をやっている。プログラミングについてもそうである。特に僕に数学やプログラミングの才能があるとかそういう自己認識はない。ただ、得意(特異)が現れうるならその辺りだ、という確信めいた期待はある。
映画『君の名は』にも登場した「組紐」という伝統工芸品があり、それは数十といった糸を組んで紐を作り上げるのだけど、あれも複雑そうに見えつつも対称性の強い手順によって、堅牢で精密かつ質朴な形状が生まれるところが美しい、と感じる。ある時間をかけて作られた強固な習慣によって、技芸を高めながら生きていく人たち(それは中華料理屋の店主かもしれない)に、生き方の美しさを感じることがある。これと「組紐」の美しさに僕は類似を感じる。
博士後期課程(いわゆるドクターコース)に入って以来、行動の自由度と習慣の安定度とのバランスにはいつも悩んできた。自分は後期課程から分野を変えた(計算機科学→整数論)ため、D1では分野の基礎的なことからしっかり学びつつ、D2では多くの遠征に出かけて知見を積んだ。D3前期は「一回休み」で、資金面・生活面での持続可能性に時間を投資しつつ、小説を書いてみたり、日記を書いてみたり、新しい試みに身を投じている。
一方で、博士前期課程(M1・M2)時代にあったような、毎朝5時台、始発の電車で登校し、学部生に混じって講義を受け、昼の15時頃には家に戻って、数学書を読みつつ20時には就寝。みたいな定型的な繰り返しの中で、自分を数学に「沈めて」きた期間を懐かしく思う向きもある。
D3前期に至っては不本意な部分もあり決定的に習慣が瓦解してしまった時期があった。そこには「組紐」的な生き方の美しさは欠けていたように思う。しかし、それでも気分よく毎日を過ごすことができたなら、幸いではないか。そうも考えた。あとは方法だ。方法を探している。
動きの柔らかさ、静かさ、丸さ、無拍子、そういうもので特徴づけられる「韻律のない所作」を習慣とできないかと考えている。無音に始まり、残響で終わるような日々に身を置けないか。例えば1つの数学的対象を数多の側面で観察し内面化していくような、予め計画はされていない、だが、機会を合わせて行われる学び方により、自他を豊かにできないか。
ということを考えていた。
- 睡眠時間 0-8 (8h)
- 筋トレ:下半身コース+レッグレイズ
明日も粘り強く、このテーマを追う。
(2020/09/19 へ続く)