再訪

 僕が借りたアパートは、山あいの田舎だけに、建物自体が北向きの崖下から突き出たような形で何処となく全体が薄暗いのだが、南の陽光は望めない代わりに東側と西側はそれなりに開けているので、角部屋であれば不思議と日当たりは悪くない。西隣には若い世帯が住む安アパートがあり、東は単身者用のレオパレスも並んでいるので、全体が暗い代わりに孤立した感じは少しもなかった。
 部屋は一階の一番手前で防犯はやや難ありだが、小学校の音楽室のように、他に比べ広い面積が与えられているし、何より角部屋で東からの陽が良く差し込む明るい部屋だった。

 それは、ちょうど実家に帰省するタイミングで、作り過ぎてしまった食事をどうするか、妻と相談するところだった。
 僕らもおかずを作り過ぎたし、間の悪いことに、その午前中に、僕の母から大量の豚カツが届けられたところだった。
 彼女はやや苛立ちながら、これら処理しきれない総菜の処遇を思案しているようだったが、そこには食物に対する喜びや、味に対する期待というものはまるで感じられず、さながら古本の断捨離を検討してでもいるようだった。ただその代わり、彼女の口からほとばしり出る言葉の末端は、いつもは巧みに隠蔽されている、姑に対する潜在的な嫌悪感によって修飾されているのだった。
「――食べ物贈ってくれるのはありがたいんだけど・・・こういう事されると本当に困る・・・」
 
 確かに母の行動は疑問と言えば疑問だが、そんなものは冷凍庫に詰め込めんでおけばいいじゃないか、の一言で済まそうと思っている僕には一向響かない訴状だった。
 もちろん僕だって伊達に夫をやっているわけではない。彼女の本音は、余計な料理を送ってきたのは僕の母なのだから、僕が責任を取って料理をどう処分するか決めるべきだ、ということだくらいは分かる。そういうわけで僕は冷凍庫を開けてみるのだが、冷凍食品が立体パズル式にいとも巧妙に詰められており、既に餃子の皮一枚詰め込む余裕もない程なのである。「それ見たことか」という視線を背中で感じつつ、今食べきってしまうか?いやとてもじゃないが、小食の僕の胃に余る量だ。それに、保存スペースの問題だけでせっかくの作り置きを浪費してしまうのは、持って生まれた貧乏根性が許さないと言っている。しかし食べないのであれば、みすみす腐らせてしまうことになる・・・。
 思考が振り子運動をするままに冷蔵庫の前に佇んではみたものの、彼女が助け舟を出してくれる気配は微塵もない。・・・まあ最悪、台所に出しっぱなしにしていく、という手もある。うん。そうだ。暖かくなってきたとはいえまだ三月、朝晩の冷え込みは健在のこの時期、冷蔵庫にしまわなかったからといってすぐさま傷むことはないだろう。よくよく考えてみれば、帰省は一泊なのだから、そもそも案ずることもないではないか・・・。
 結局、僕は母の豚カツも作った総菜も台所へ出したまま出掛けることにしたのだった。全く、何を悩んでいたんだか・・・。
 
 ところが次に僕がそこへ現れたのは一週間も経ってからだった。

 部屋へ上がると、玉葱の腐ったような臭い。出しっぱなしの総菜は、うららかな春の日差しの中、静かに朽ち始めていた。暗澹たる思いで、僕は事実を整理し始める――そう、最後にここを夢で見たのは、たぶん一週間前だ。その時置いて行った総菜が傷んでいる・・・つまり恐らく、夢の中でも現実と同じ一週間が過ぎたわけだ――この分では、密かに楽しみにしていた母の豚カツも、気の毒な総菜達と同じ運命を辿ったのだろう。
――と、台所の陰から、若く、やけに小柄な女が飛び出してきて、丸めた肩で、僕を突き飛ばし、そのまま廊下へ走り去った。見たことのない女だった。台所の床に、衣のかすが残った空のトレーと、割りばしが残された。
 兎に角、母の豚カツが無駄にならなかった事だけは僕にとって救いだった。

 そして今朝のことだ。殆ど三か月振りくらいに、あの夢を見たのだ。
 僕はもうすっかりそのことなど忘れていたが、やはり玄関を開ける瞬間、とてつもなく嫌な予感に襲われたものだ。この前の時、傷み始めた総菜を処分した記憶は特にない。恐る恐る足を踏み入れると、思いのほか腐敗臭が少なく、思わず大きな空気の塊を吐く・・・だがまた別の違和感。耳鳴り?いや、もっと背中の方、肩甲骨の間辺りで感じるこの感じ――静かな部屋で、背後に誰かいるときの・・・
 
 「何であのままにしていったのよ!」
 振り向くと、あの時の女――しかし、顔中の脂という脂が抜け落ち、出っ張った頬骨の上の血走った眼はどこか僕の頭の後ろ三十センチくらいの所に焦点している――その女が、拒食症患者の骨が直接皮で覆われたような腕で、鷲掴みにした僕の両肩を力任せに揺すぶるのだった・・・。

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