昼餐
・・・いつもの駐輪場。僕の自転車に、大きな丸い蜘蛛が巣を張っている。
十一時の太陽に光る、黒地に黄色く細い縞が描かれた胴から、その三倍ほどはありそうな長さの細い腕が、精確な八角形を張って、不幸な獲物の到来を待ちわびている。
よりにもよって、彼が陣を張ったのは僕の自転車のサドルの上だったのだ。手で払い除けるには彼の張った網は少々分厚過ぎて、一度や二度では取り除けそうにない。何せサドルの尻が乗る頂面から、彼の肉厚な身体が丸ごと覆い隠されるくらいの厚みがあるのだ。ちょっとした繭の様相である。巣の端は、サドルの縁に沿ってアメーバ状に輪郭して、見るだに頑固な密着を形成している。
何か硬くて平たい、ヘラのような道具でもあれば、簡単にこそげ落とすことはできそうだが、都合のいい道具を持っていないし、何より変則勤務明けの身体で蜘蛛を相手に格闘する気にはなれない。
これは乗れないな、と早々に諦め歩き出すと、向こうから中年男がやってきた。なんとも締りのない歩き方で、一目で普通ではないと分かるような男だった。外見上はこの時期どこにでもいる、ランニングシャツ一枚の禿おやじなのだが、服のまま海へ落ちた者が陸に上がってからやるように、両方の腕を力なく前の方に垂らし、いわゆるゾンビの様に、前屈みになって歩いてくる。
露骨に訝しがる僕には目もくれず、何かを目指して歩いて行く・・・。
嫌な予感しかしなかった。警戒して少し離れた所から見ると、中年男は監視を知ってか知らずか、やはり僕の自転車の前に立ち止まった。よりにもよってそのサドルを、妙に真剣な眼差しで見下ろしている。もちろん一刻も早く帰りたい気持ちには違いないのだが、こうなってはその場を動くわけにはいかない。男の次の行動がどんなであったにしても、僕は男にひと声、声を掛けざるを得ないだろう。何か嫌味でない警句を・・・
――いや、待てよ。機先を制して踏み止まらせる、という手も考えられなくはない。自転車がとても座れないのは事実だし、盗もうとしたって鍵がかかっているのだから、男に無駄な窃盗未遂を起させるよりは懸命だ。『そこ、蜘蛛が巣張っちゃって。』とか『とても乗れないんで置いて帰るんです』とか何でも良さそうだ。そうだ、言うなら早く言った方がいい。今を逃せば却って争いの種になる。――あの、そこ・・・
――次の瞬間、男はだしぬけに腰を直角に曲げ、お辞儀じみた格好になった。僕は堪らず、それでもおずおずと、駆け寄った『ちょっと・・・どうしたんです?』――声にならない声で呟きながら。
その光景はフラッシュの様に僕の網膜に焼き付いている。
恐るべきことに、男は深々お辞儀をした状態で、顔をサドルに・・・『繭』に突っ込んでいた・・・。そして、先ほどの丸々とした蜘蛛を、頬張っている・・・もちろん生きたまま、手も使わずに・・・。
僕は、蜘蛛の、細く伸びた脚の、鋭く尖った先端が、口の中にチクチク刺さる痛みを想像し、食後の果実を食べ過ぎた時の様に胸が悪くなり、気が遠のいた・・・。