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ほぼ最後の県立美術館
美術館のゆらぎ 新設と閉館
「ほぼ最後の県立美術館」とも言われる鳥取県立美術館が間もなく(2025年3月30日予定)開館する。建物は既に完成、報道陣に公開された。七つの展示室と収蔵庫を備えた立派なものである。オープニングは「アート・オブ・ザ・リアル」と銘打って江戸から現代まで180点の作品を展示する華々しさ。購入にあたって県民から賛否両論があったアンディ・ウォーホールの《ブリロ・ボックス》も出品される模様。洗剤の箱を積んだだけなのに価格が3億円もする。この作品こそアーサー・C・ダントーが『アートとは何か』において、芸術の終焉のアイコンとしてとりあげたもので、デュシャンの便器と並び、レディメイド(既製品)を用いて芸術と非芸術の境界を示す存在である。
ダントーによればアートワールド、すなわちアートの業界が作品の価値を決めているのであり、美術館はその枢要な機関と言える。しかし一般人の感覚からすれば本当に億単位の価値があるのか、という疑問もごもっともである。反対に美術館やアートワールドの権威に反旗を翻し、その枠組みから外れた作品、アーティストも存在する。例えば地方で開催される芸術祭ではその土地に強く結びつき、他の場所では実現できないような作品やその場で消えていく作品も多い。芸術、美術、アートに関係した価値観が一元的ではなく多様な考え方が可能な現代では美術館のあり方そのものが問われている。
運営面では昨年秋、千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館閉館の知らせが波紋を呼んだ。企業のメセナとしてコレクションを公開してきたが採算面の悪化から株主から改善を要求されたのである。これまでと同様な運営方針では維持できない。一方、オスロ美術館、グッゲンハイム・アブダビ、パリのブルス・ドゥ・コメルス、香港M+など、世界を見渡せば、美術館は衰退するどころか、むしろ逆に次々に新設されている。
ここにはどんな意味、意義があるのか。
ホワイトキューブの違和感
学生の頃、博物館実習で初めて京都国立美術館を訪れた際、そこに陳列されている仏像のあまりの存在感に圧倒されると同時に強い違和感を覚えた。照明を控えめにし、八方から鑑賞できるようガラスケースに収められ、時代順に並べられた彫像はまるで医学標本のように感じられる。一つ一つが人々の信仰を集めてきた仏様であり、寺院から引き剥がされ、歴史的由来や宗教的文脈から切り離されているという意味でどこか哀れである。仏像は元来、単なる彫刻、美術品ではなく、コレクションの対象としては不適切であり、不遜な印象すらある。
こうした近代的な美術館の展示空間は「ホワイトキューブ」と呼ばれる。関西学院大学の古川真宏准教授は『芸術家と医師たちの世紀末ウィーン』にて、その白い壁、パーテーションに区切られた無機質な方形の空間の原点が、一般的にはニューヨークのMOMAとされているが、それよりも遡った世紀末ウィーンのサナトリウムにあることを示唆している。患者が医師にとっての観察対象であるように、作品は鑑賞者の視線にさらされる。美術館の原点であるルーブルを見ればわかるように、従来、作品は装飾品として建物の持つ雰囲気や歴史的文脈に位置づけられ、その空間になじんでいたはずだ。それをより純化したのがホワイトキューブであり、作品はいわば裸のまま衆人環境にさらされるのである。アーティストはゼロ地点からの呈示を求められ、隠れることはできない。
一般に美術館の役割は、蒐集、保管、研究、教育啓蒙である。ところが国立新美術館は作品のコレクションを持たない。展示室を貸出しながら過去・未来に渡っての展覧会のカタログのみを集めるという異色の存在である。展覧会の記録を残すという意味でメタ美術館であるとも言える。
こうした美術館が登場したことが示しているように、状況は変化しつつある。芸術とはなにか、アーティストが訴えたいこと、人々が求めていることはなんなのか。単なるホワイトキューブを超え、人々が集まる場として、図書館や博物館、教育研究機関、あるいは商業施設などと共働することも求められる。すでにアーティストのワークショップなどを開催している館もあるが、創造の場としての意味はもっと高まっていくであろう。
美術館に求められる「楽しさ」とは
東京、竹橋にある国立近代美術館が「ぬいぐるみお泊り会」を催したところ、子供に限定したにもかかわらず申し込みが殺到したという。
https://www.momat.go.jp/events/20241105
芸術作品の触れ方も「文化財の勉強」といった枠組みで「感動」「解釈」を強制するのではなく、もっと自由であっていいという事である。「感性」「センス」「才能」といったお仕着せめいた概念を棄て、自由に遊ぶ場を提供するのが今後の課題である。もちろん自由だからと言ってなにをしてもいいというわけではない。そのために学芸員・キュレーターは上記のお泊り会のようなさまざまな仕掛けを考案すべきで、ここでこそ本当の意味でのクリエイティビティを発揮すれば美術館の魅力は増し、「最後の」などという言い方も消えていくと思われる。
貴族やブルジョワのサロンから学術的な研究、教育啓蒙の場としてのホワイトキューブへ進化した美術館は、今、また新たな段階に達している。その背景にあるのは美術館という場がもたらす関係性の変容である。元より作品と人のふれあいの場であるはずだが、それに加えて人と人が結びつく機能が付加され、アーティスト、鑑賞者、学芸員の個人的関係だけではなく、集団的なレベルも考慮に入れたより広い視座で考えるのがよいのかもしれない。
石破首相は日本を「楽しく」すると言っている。これはある意味、正しい施策だと思う。地方の人口が減っているのは正に楽しくないからであって、工場を誘致したり、奨励金を出したりと言った経済的な施策だけで解決しないことはすでに明らかである。文化的な問題が根底なのであって地方は楽しくなく、つまらない。だから寂しくて若い人は出て行く。元からそうだったわけではないし、文化的個性がある町は規模が小さくとも人は減っていない。注意点はいわゆるハコモノ行政の弊害で莫大な費用をかけてつくられた文化施設が完成後の運営費が足りなくてガラガラの廃墟になってしまうことである。その場で消えていくイベントやアーティストの育成などに予算を投入し、賑わいを作る決断が必要だ。例えば金沢の二十一世紀美術館は年間二百万人を集客し、美術館として日本最大を誇る。新潟県の十日町などが開催する「大地の芸術祭」も三年に一度の開催で全世界から五十五万人ほどの来場者がある。大切なのは知恵と決断なのである。
問題は「楽しさ」の中身だ。首相は「夢」「安心・安全」などの言葉を挙げたが具体性を欠いたため批判を浴びてしまった。「楽しい」とは何か、改めて考え直すべきなのである。この点は哲学者・國分巧一朗の「手段からの解放」(新潮新書・2025年1月刊)を参照すると良い。カントについての議論はなじみのない方にはわかりにくいかもしれないが、要点は「わたしたちの日常では楽しさが経済的な手段と化して産業に奪われているのでは? 」ということである。目的を定めずに楽しむことの大切さを再検討しなければならない。これこそアートの役割である。