感想文:「涙がこぼれそう」について
the Birthdayの名曲「涙がこぼれそう」の詩について。
チバユウスケの詩に心動かされてしまうのは、「所在なさ」あるいは「行方なさ」を射抜いているように感じられるからだ。
所在とは、居場所である。
「涙がこぼれそう」の冒頭の「俺さ今どこ?」は端的に「俺の居場所なさ」を表現している。
「俺」は自分の居場所が分からない。
だから電話を探して「あの娘に聞かなくちゃ」ならない。
自分の所在が分からなくなり、電話で自分の居場所を聞く。
「あの娘」は「俺」の場所を確定してくれる特権的な存在だ。
わたしは村上春樹の『ノルウェイの森』を思い出す。
緑に電話を掛けるワタナベである。
「俺」は自分の居場所が分からないだけではない。
定点が無ければ、向かう先も分からない。
方向は相対的だ。
所在なさとは、行方なさである。
やや突飛だが、宇宙空間である。
映画『ゼロ・グラビティ』を思い出す。
宇宙に投げ出されてひとり浮かぶライアン博士の孤独。
では、そんな孤独をどうしたら良いのか。
所在と行方を決める方法はあるのか。
「俺」は「カラスの親子」が「呼び合ってる」のを見て嬉しくなる。
呼び合うことが出来れば。
そうしてチバユウスケは叫ぶ。
これはどういうことか。
そもそも「涙がこぼれそう」なのは何故なのか。
「涙がこぼれそう」なのは、孤独を卑下しているからではない。
むしろ、自分の所在なさ・行方なさを引き受けているからだ。
チバユウスケが歌うのは、ある種の救済である。
チバユウスケが呼び、観客が応じる。
彼らの位置は相対的に定まる。
呼ぶこと、応じることが通じ合うとき、涙がこぼれそうになる。
ひとの抱える孤独や、歌うことそれ自体を、たった一曲に凝縮してしまうチバユウスケの文学的才能である。
以上はわたしの勝手な解釈だ。
こんなもので彼の呼びかけに対して応じられているかは、分からないけれど。
わたしは都合で献花には行けない。
だからこれはわたしなりの応答であり献花である。
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