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非一般的読解試論 第二十回「本文の内部と外部、あるいは過剰と秘密」

こんにちは、デレラです。

非一般的読解試論の第二十回をお送りします。

非一般的読解試論では、ひとが抱く「感想」について考えています。

さて、前回の記事に対して、次のようなコメントをいただきました。わたしの関心に寄せて要約してあります。

「Aさんが体験した感情や現実の出来事や考えついた理論などを表現した【小説や評論などの文芸作品】を、Bさんが読んだとき、Bさんが抱く感想と、Aさんの体験とのあいだには、どれくらい差異が生じるだうろか」
(コメントを筆者要約加筆)

簡単に図式化してみましょう。


Aさんの体験(感情や出来事や理論)
↓表現
小説や評論など文芸作品
↑読解
Bさんの感想


Aさんはある感情や出来事や理論を体験し、そして、Aさんがその体験を基に表現した文芸作品があり、さらに、それを読んだBさんの感想がある。

このとき、「Aさんの体験」と「Bさんの感想」は、どれくらい差異があるだろうか、という問いです。

これは、わたしの「非一般的読解試論」で扱うべき重要な問いの一つだと思います。


少し話は脱線しますが、記事にコメントを下さると、すごく思考が広がります。

そもそも、「読者がいる」というだけでも、わたしの思考は広がるわけですが、そこに、コメントというリアクションをいただけると、さらに広がります。

他にも、示唆的で鋭いコメントをいただいております。

わたしの拙い文章を読んで下さる方、また、コメントいただいた方に、最大の感謝を込めて、今回も精一杯、思考を広げてまいります。


さて今回、わたしたちは、「Aさんの体験」と「Bさんの感想」の差異について、考えたいと思います。

実感というか、日常感覚的には、両者はズレてしまうものだ、という気がします。

たとえば、同じ本を読んでも、友人とわたしで感想が違うことがあります。

その原因は、現時点でざっくり言うと「興味関心の違い」であるように感じられます。

一方で、教科書的な、学校教育的な意味で考えると、読解には「一つの回答」があることも事実です。

「傍線部Bにおける筆者の意図として正しいものを以下の選択肢1~5の中から一つ選べ」というやつですね。


このように、日常感覚的には「ひとによって感想が違う」、一方で、学校教育的には「読解には一つの答えがある」。

差し当たり、ここから思考を始めましょう。

今回も、お付き合いください、よろしくお願いします。


1.学校教育的、本文と置き換え

日常感覚的には、ある「文芸作品」を読んだとき、友人とわたしで感想が違ったりする。

一方で、国語や現代文などの学校教育的には、「正しい読解」があるとされる。

この、日常感覚と学校教育の差異を出発点にしたいと思います。

まず最初に後者の、学校教育的な「正しい読解」について考えてみましょう。

国語や現代文のテストでは、ある程度の量の文章を読んで、その読解について問題文に答えて、その答えが正解であれば「マル」、違えば「バツ」が付けられ、点数化されます。

このときマルが付く答えが、「正しい読解」でしょう。

本当にそうだろうか。何となく「正しい読解なんてない!」と言いたくなりますよね(笑)

そもそも、学校教育的に「正しい読解」がある、と言うときの「正しい」とは、どういう意味なのでしょうか。

「正しい読解」について考えるためには、学校教育的な「正しさ」とは、どういう意味か、を考える必要がありそうです。

そこで、わたしが個人的な興味から購入した、教学社の『難関校過去問シリーズ 東大の現代文25ヵ年[第8版]』の登場です!!

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(『難関校過去問シリーズ 東大の現代文25ヵ年[第8版]』桑原聡編集,第8版第2刷 2017,以下『東大の現代文』)

別に東大を受験する訳ではありません(notドラゴン桜!笑)。

何となく、現代文の解法ってどういう風に言われてんのかなあ、と思い、2017年に購入した次第です。


さて、この『東大の現代文』では、現代文の問題の「解き方のコツ」、いわゆる「解法」を解説してくれています。

学校教育的な「正しい読解」とは何か、を考えるための参考にしてみましょう。

一点注意しなければならないのは、『東大の現代文』の解法は「評論の問題」の解法であることです。

「小説の問題」の解法ではありませんが、あくまで手がかりです。

さて、この『東大の現代文』では、なんと解法をたった8つのパターンに分類しています!!

簡単に要約引用します。

パターン1 圧縮型
本文中の文章を、短い言葉に圧縮して置き換えて回答する、圧縮しないと文字数制限を超えてしまう。

パターン2 具体一般化型
本文の具体例を一般的な言葉に置き換えて回答する。

パターン3 具体的説明型
パターン2の逆、抽象的な表現を具体例に置き換えて回答する。

パターン4 理由補填型
該当下線部だけでは内容が足らないので、本文中の別箇所の表現や自分の考えを足して回答する。

パターン5 指示語問題
指示語が何を示しているか回答する。指示語を本文中の表現に置き換える

パターン6 知識型
設問内の四文字熟語の意味が分からないと解けない。

パターン7 要旨要約型
傍線部を本文の論旨をまとめながら説明して回答する。

パターン8 置換型
自分の考えではなく、本文中に登場する言葉のみで置き換えて回答する。

(『東大の現代文』,p.11-14,ギリシャ数字をローマ数字に変更引用者,適宜引用者要約)


すごい!!東大の現代文って、すごく難しそうなのに8パターンで解けるんですね!!

さて、これらの解法をざっと見て、わたしは2つのキーワードを見つけました。

一つは「本文」であること、もう一つは「置き換え」であることです。

たとえば「傍線部Bについて説明しなさい」という問題があったとしましょう。

この問題に「正しく答える」ためには、「本文」に登場する言葉だけを使う必要がある。

あるいは、もし本文に登場しない言葉を使うならば、その言葉は、本文に登場する言葉と「置き換え可能な言葉」でなければならない。

「本文」と「置き換え」、この二つが「正しい読解」に必要な要素のようです。

上記の解法例は、あくまで「評論の問題」についての解法ですが、「小説の問題」についても、同じことが言えると思います。

もしも、小説の問題として「登場人物の気持ちを選びなさい」という選択問題があったとしましょう。

それに「正しく答える」ためには、本文に登場する言葉、または、それに置き換えられる言葉、が使われた選択肢を選ぶ必要がありそうです。

まとめましょう、学校教育的な「正しい読解」とは、「本文」または「本文と置き換え可能」である読解である。

本文、または、本文に置き換え可能でなければならない、ということは、どういうことか。

つまり、「正しい読解」とは、「本文」から逸脱してはならない、ということ。

さらに言い換えると、「正しい読解」とは、「本文の内部」で完結している、ということ。


2.日常感覚的、文脈の違い

さて、わたしたちは、下記の図式について考えています。


Aさんの体験(感情や出来事や理論)
↓表現
小説や評論など文芸作品
↑読解
Bさんの感想


「Aさんの体験」と「Bさんの感想」はどれほどズレるのか。

このことを考えるために、以下二つのことを出発点に置きました。

・日常感覚的には、ある「文芸作品」を読んだとき、友人とわたしで感想が違う
・学校教育的には、国語や現代文の問題では「正しい読解」がある

後者の「正しい読解」とは、どうやら「本文」から逸脱しないことである、と考えました。

では前者、ひとによって感想が異なるというのは、なぜでしょうか。

考えていきましょう。

分かりやすくするために、極端な例を出します。

「SF好きのわたし」と「宇宙飛行士の友人」が、映画『スターウォーズ』を観たとしましょう。

SF好きのわたしは「ジェダイの騎士マジかっこいいぜ!スターデストロイヤーやライトセイバーとかのガジェットも良い!」と言います。

宇宙飛行士の友人は「うーん、宇宙空間で遠心力も使わずに、船内を浮遊せず歩くの無理じゃね? どういう仕組み?」と言います。

さて、このように、感想が異なるのは、わたしと友人の「文脈」が異なるからです。

わたしには、「SF好き」という文脈があります。

友人には、「宇宙飛行士」という文脈があります。

わたしは、たくさんのSF作品をみて、それぞれに特徴的なSFガジェット(登場する特徴的な道具・乗り物など)が好き、という文脈。

一方、友人は、「宇宙飛行士」として、宇宙空間に関する豊富な知識がある、という文脈。

それぞれの「人生の文脈」からすると、『スターウォーズ』を観た印象が異なる。

そもそも身体が違うし、いくら友人だからと言って、同じ人生を過ごすわけではないので、文脈が異なるのは当然です。

つまり、「感想が違う」ということは、「人生の文脈が異なる」ということ。

そして、前章で見てきた「正しい読解」との「大きな違い」がここにあります。

それは、「人生の文脈」は「本文」の外部にある、ということです。

わたしたちの人生の文脈は、本文の中には出てきません(例外はありますが)。

つまり、わたしたちは、基本的には、文芸作品の外部にいる、ということです。

『スターウォーズ』という作品からすると、わたしがSF好きだということも、友人が宇宙飛行士だということも、どちらも、作品の外部であるということ。

わたしたちは、それぞれの人生の文脈が異なる。

そして「人生の文脈」は、「本文の内部」から逸脱している。

つまり、「人生の文脈」とは、「本文の外部」にある。

だから、ひとによって、「感想」は異なるのです。


3.過剰と秘密

人生の文脈は、本文の外部にある。

だから、ひとによって文芸作品の感想は異なる。

正しい読解は、本文の内部にある。

だから、正しい一つの答えがある。

さて、以上を前提にして、最初の図式を考えてみましょう。


Aさんの体験(感情や出来事や理論)
↓表現
小説や評論など文芸作品
↑読解
Bさんの感想


「Aさんの体験」と「Bさんの感想」は、どれほどズレるのか、というのが今回のテーマでした。

それは差し当たり、「Aさんの文脈」と「Bさんの文脈」が、異なる分だけズレるのだ、と言えるでしょう。

前章のSF映画に関する、わたしと友人の感想の違いにあったように、「Aさん」と「Bさん」には、「Aさんの創作した文芸作品」の外部で、それぞれ「文脈」があります。

たとえば、銀行員をテーマにした小説を書くために、銀行員に取材をしたり、金融の仕組みを勉強したり、現在の銀行業界の趨勢を理解したAさんと、普段はアパレルで洋服を売っていて、趣味で小説をよく読むBさんでは、やはり文脈が違うと言わざるをえません。

国家や巨大企業のような大きな組織を相手にする銀行員の感情やドラマを、アパレルで個人のお客さんに丁寧に接客するBさんは、どのように共感して、どのように感じ取るのか。

全く同じ感情を抱くことは難しいでしょう。しかし、相手を思う気持ちなど、人情的には共感できるかもしれない。

また別の例で、キュビズムのような抽象的な作品の作家と、鑑賞者の感想は、もっと大きくズレるようにも考えられます。

そのズレの原因は、作品の外部にあって、作品内部の「正しい読解」とは違う、それぞれの「感想」を形作っている。

面白いです。作者と読者は、文脈が違うから、必ずズレる。

このズレが文芸作品の醍醐味なのかもしれません。

さて、このズレを、もう少し分析してみましょう。

ズレを下記のように図示しました。図

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左から「Aさんの体験」と「それを基に表現された文芸作品」と「それを読んだBさんの感想」が並んでいます。

そして、ここには、計4つのズレが生じる。


図1-2

画像2


①は、Bさんの人生の文脈という「作品の外部」によって生じる「感想の過剰」です。文芸作品の本文から逸脱したBさんの解釈。

②は、Bさんが読み取れなかった部分、Bさんには解けない「作品の秘密」です。Bさんの文脈からは、どうしても読み解けない部分。

③は、Aさんの体験にはない部分、想像(あるいは無意識)の部分であり「作品の過剰」です。書く意図はなくとも、無自覚的に書かれてしまう部分でもあります。

④は、Aさんが作品化しなかった部分、あるいは、できなかった部分であり「体験の秘密」です。Aさんがあえて書かなかった、あるいは、体験したAさん自身も気がつかないような部分です。

「文芸作品」、「作者Aさん」、「読者Bさん」のあいだには、これだけのズレが生じている。

そして、もし真ん中の「文芸作品」が無ければ、これらのズレは、そもそも生じない。


図1-3

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Aさんの体験だけがあり、Bさんは作品を読むことは無く、感想は生まれない。

Bさんは、ただそこに存在して、Bさんの人生の文脈を歩んでいる。

文芸作品が、両者のあいだに差し挟まるときにだけ、「過剰」と「秘密」は生まれる。

文芸作品を読むとき、わたしたちは、「正しい読解」とは異なる、この「過剰」と「秘密」のズレを楽しんでいる。

わたしはそう思うのです。


4.おわりに

ここまで長々とお付き合いいただき大変ありがとうございました。

今回は、文芸作品の醍醐味に少し触れられたように思います。

しかし、「作品の内部と外部の境界」についての分析が不完全です。

わたしは文芸作品を読んで、「この文芸作品の内部にいる」と感じることがあります。

言い換えると、「この本は、わたしのために書かれたものだ」という読書体験です。

こういう、作品外部のわたしが、作品内部に入り込む(あるいは、その逆)ような、いわゆる「自己投影の体験」をどう考えたら良いのか。

また別の問題もあります。

たとえば、小説以外の評論などで、「現実の若者の置かれた状況」という文芸作品があったとした場合。

いわゆる「ルポ」です。

銀行員の人生の文脈について書かれた「ルポ」は、「内部と外部」の境界を揺るがします。

(ちなみに、わたしは銀行員ではありません。)

「内部と外部」の境界を揺るがす文芸作品に、「ルポ」や「私小説」などがある。

こういう境界破壊的な文芸作品をどう考えたら良いのか。

これらは今後の課題です。

この非一般的読解試論は、考えながら書き進めています。

何かご指摘、お気づきのことがあれば、コメントいただけると嬉しいです。

みなさんとわたしのズレを感じたい、そう思います。

ではまた次回。

おわり

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