非一般的読解試論 第三回「図式論1 旅行・分からなさ・閉じること」
こんにちは、デレラです。
非一般的読解試論をお送りします。
この連載は「何かを読んだり観たりしたときに、なぜ感想を抱くのか」について考えることを目的にしています。
つまりは感想論の連載です。「感想」は個人的な営みなので「非一般的」と銘打っています。カッコつけです。「非」とか言ったら頭良さそうじゃね?っていう頭悪い発想です。
前回予告した通り、今回からは「図式論」です。何かを鑑賞するときに働く思考の枠組みについて考えていきます。
一回では書ききれないので、多分三回くらいになるんじゃないかと思います。
ではさっそく始めましょう。
1.旅行と「分からなさ」
数か月前に人生で初めて海外旅行に行きました。行き先はパリです。ビジネスではなく観光。
非常事態宣言、外出自粛などが世界的にひろがっている2020年4月現在から顧みると、4日間のパリ旅行は遠い昔の出来事のように感じられます。
あれは2019年10月末でした。パリはわたしの住む街と比べて気温が低く、外套とマフラーを手放すことができませんでした。
どの道を歩いても、どの角を曲がっても、なにを見ても、なにに触れても初めての街。
眼球がうけとる光の刺激、喉を通る呼気、耳に入る音。住み慣れた街では決して味わえないあの感覚。
日本の住み慣れた街では、わたしの身体は街と同化していて、何を見ても、何を聞いても「違和感」が無い。違和感がなさ過ぎて、わたしは自分の身体をすっかり忘れていました。
しかし、パリの4日間で、わたしは身体が外界に接していることを強く意識しました。
身体が未知の世界と接している。わたしは、パリで「身体」を思い出したのです。
さて、これからの非一般的読解試論は「図式」について考えていきます。「図式」とは思考の枠組みです。
ではなぜ「人生初のパリ旅行の話」から始めるのか。それは、あなたと「あるイメージ」を共有するためです。
「あるイメージ」とは何か。
それは、自分の全く知らないところに行く時に感じる「不安と期待」のイメージです。
「分からなさ」のイメージと言い換えてもいいでしょう。
「分からなさ=未知」から生じる「不安と期待」に出会ったとき、ひとはどのようにそれを処理するのか。
このイメージが、非一般的読解試論で図式を考えるための最初のステップになるでしょう。
旅行に行ったときのあの感覚。特に初めての旅行で、全く知らない土地に行った時に感じる「圧倒的な分からなさ」。
この「分からなさ」のイメージは、本を読んだり映画を見たりしているときに出会う「分からなさ」のイメージと似ています。
小説や詩を読むとき、そこに何が書かれているか分からない。
映画を観るとき、そこに何が映し出されているか分からない。
この「分からなさ(=未知)」をどのように処理するのか。
図式について考えるために、この「分からなさ」を処理する二つの方法から話を始めましょう。
一つは閉じること、そしてもう一つは開くこと。
2.閉じること
わたしは、何か分からないものに出会ったとき、不安と期待を感じます。
「分からなさ」はわたしを不安にします。
わたしの目の前に在る「これ」。「これ」は初めて目にするものです。わたしの分からない「これ」は、わたしにとって何を意味しているのでしょうか。
わたしはパリ旅行のときに何度も不安になりました。情けないことに、そもそも言語が分からないからです。電車のチケットを券売機で買うのも苦労しました。
わたしはフランス語がしゃべれません。英語もカタコトです。いま目の前の人が何を言っているか分からない。この分からなさが不安を想起します。
おなじことが映画や漫画、小説に言えることです。
この映画を見て、映画が何を意味しているのか分からない。小説の主人公が何を言っているのか分からない。共感できない。
そんなとき、わたしはどうするか。
わたしは、わたしの分かることを探そうとします。
例えば映画で「おもちゃの足の裏に持ち主の名前が書いてある」シーンを見たとしましょう。わたしはそれをどのように理解するでしょうか。
なぜ名前を書くのだろうか。まずは、記名の理由に「分からなさ」を感じるでしょう。
そして次に、記名するということは「失くしたくないから」、もしくは「ほかの誰かのモノと区別をつけたいから」など、「記名する理由」について自分の知っている情報を連想します。
このように「自分が知っていること」と「映画の状況」を結び付けることで、「シーン」の意味を確定しようとするでしょう。
意味を確定して、目の前の「分からなさ」から解放されようとする。
これを「意味を閉じる」と呼びましょう。
分からなさに出会ったとき、わたしは意味を閉じることで「安心する」のです。
例えば、クッキーを作るとき。
「意味を閉じる」ことは、クッキー生地の塊に「星の形をした型抜き」を圧し当てて星の形をつくるのに似ています。
「分からないこと=生地」に「分かること=星の形の型」を圧し当てることで「星=理解できる形」に加工する、とも言えるでしょう。
3.意味を閉じる、記名する
「意味を閉じる」ことについて、もう少し話を広げましょう。
「トイ・ストーリー」をご存じでしょうか?
2020年2月28日にTVで再放送してましたよね。
1996年にディズニーとピクサーが制作した「トイ・ストーリー」は、世界初のフルCG長編アニメーション映画です。
子どもはおもちゃで遊そぶ。でも遊んでいないとき、おもちゃは何をしているだろう?
童謡「おもちゃのチャチャチャ」を映像化したような世界。
さて、なぜここで「トイ・ストーリー」を例にあげるのか。なぜなら、この物語が「意味を閉じる物語」だからです。
まずは、あらすじを確認しましょう。
「トイ・ストーリー」の主人公は「ウッディ」と「バズ」の二人。
「ウッディ」は、持ち主である少年アンディの一番のお気に入りのおもちゃです。
アンディは、お気に入りのおもちゃの足の裏に自分の名前を書く癖があります。
「アンディ」の記名は、お気に入りの証拠なのです。
もちろんウッディの足の裏にも「アンディ」の文字が刻まれています。
ウッディは、アンディのお気に入りであることが一番の幸せでした。
そこに、新入りの「バズ・ライトイヤー」がやってきます。
バズは最新SFの主人公のおもちゃです。
アンディはすぐにバズを気に入り、バズの足の裏にも「記名」をします。
バズが記名されることで、ウッディは、アンディの「お気に入り」という地位を奪われるのではないか、と疑心暗鬼になります。
ウッディは「お気に入り=意味」を剥奪されそうになり、不安に陥ります。
自分が何者でもない「おもちゃ」になってしまうことへの恐怖です。
何者でもないとは、意味が確定されていないということです。
お気に入りではない、ただのおもちゃ。無意味のおもちゃ。
では、意味が確定されない恐怖は、どのように解消されるのでしょうか。
ウッディは、おもちゃを大切に扱わない(おもちゃの腕をちぎって別のおもちゃにくっつけるなど極悪非道を繰り返す)少年シドと出会います。
シドに傷つけられたおもちゃを救うため、ウッディはシドに意趣返しを決行します。
そしてウッディは気が付くのです。
おもちゃは、持ち主に大切にされていることが最も重要な意味であり、お気に入りである必要はない。
ウッディは、足の裏の記名が「お気に入り」という意味ではなく、「持ち主に大切にされている」という意味であると再解釈することで、不安を解消します。
ここでのポイントは、記名が「すでに与えられたもの」であり、それを「再解釈する」ことです。
新たな記名ではなく、すでに与えられた記名を再解釈するということ。
安心は、すでに持っているものを再解釈することで手に入る。
すでに知っていること、すでに持っていること、「すでに」の安心感。
これは、クッキーの型の例でも同じことが言えます。
「クッキーの生地」を、「すでに持っている星の型」によって「星の形に加工する」。
これを次のように言い換えてみましょう。
クッキーの生地=何者でもないことによる不安
すでに持っている星の型=すでに与えられた足の裏の記名
星の形に加工する=持ち主に大切にされていると理解する
つまり「トイ・ストーリー」は、おもちゃが自分の意味を再解釈する物語なのです。
この物語でウッディが体験する「意味が不確定になるときの不安」と「意味を確定したことによる安心」は、「意味を閉じる」ことによる不安の解消を分かりやすく表現しています。
「意味を閉じる」とは、自分が持っているアイテムを使って意味が理解できるように加工することで、「分からなさの不安」を解消することです。
4.分からなさを閉じる
さて、今回はここまで。
思考の枠組み=図式を考えるために、まずは「分からなさ」と「その処理」について書き始めてみました。
わたしは「分からなさ」に出会うと、不安になり、分かることを探して「意味を閉じて」、安心します。
フランス旅行では、意味の分かるものに出会うたびに安心したものです。(信号の青色、H&M、自動販売機、ボルビック)
次回は、「分からなさ」を処理するためのもう一つの処理方法。「開くこと」について考えてみます。
「意味を閉じる」ことは、意味を確定して不安を解消することでした。
「意味を開く」ことは、その反対です。
それを考えるために「トイ・ストーリー4」について言及します。
トイ・ストーリーは、シリーズを通して、わたしの考えることを全部表現してるんじゃねえか、もしかしてって思いました。
見たらきっと気に入りますよ。(謎の宣伝)
ではまた次回。