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デレラの読書録:フィリップ・K・ディック『聖なる侵入』
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フィリップ・K・ディック,新訳2015年(原作1981年),早川書房
奇妙なSF小説である。
幻想、妄想、陰謀論、スピリチュアル、ドラッグ、幻覚、そういう怪しい物がごちゃ混ぜになった、まるでおもちゃ箱ような小説を書くディック。
「ヴァリス三部作」の二作目。
「救済」についてのヤバい思考。
この小説で描かれる「救済」のどこがヤバいのか。
人生には辛いことが付きものだ。
「しかし、捉え方次第で人生は良くもなるし悪くもなる」、そういう考え方があるだろう。
その考え方はある一面では正論だし、実際にひとの気持ちをフッと軽くしてくれるのも事実だ。
しかし本当にそうだろうか?
ようは、ヤバい妄想野郎にもその考え方は通じるのだろうか、という問題である。
『聖なる侵入』の主人公ハーブ・アッシャーは、ある女性が地球に侵入するのを手助けした。
ベリアルという悪神によって地球から追い出された善神が、地球に帰還するために、その女性に受胎していたのだ。
善神を処女受胎した女性の形式上の夫となったハーブ・アッシャーは、自分は神の法的な父親だ、と言う。
ハーブ・アッシャーの言葉を文字通り受け取れば、単なるヤバい妄想である。
作中でも、気が触れているという表現が出てくる。
主人公は単に妄想的なヤバいやつなのだ。
それが「人生を良くするのも悪くするのも自分次第だ」という思考で救済される。
果たしてこれは「救済」と言っていいのだろうか?
この問題は深い。
ようは、突き詰めて考えてみれば、「そもそも救済とは、そういう危うい思考の上に成り立っている」ということだ。
救済は、ある種の諦念とセットなのではないか。
ディックは書く、「生きることを始めるのだ(p.379)」。
生きることは、あるいは救済は、ある種の狂気を帯びている。
人生は辛い、不条理だ。
そこから救済されるには多少なりとも狂気が必要である。
現状を肯定するための狂気だ。
ディックが描く狂気には、説得力がある。
リアルであると感じられる。
綺麗事では済まされない。
わたしたちは狂わなければならない、救われたければ。