エッセイ:キリトリ線について
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1.世界から切り取られた切片
わたしたちは、言葉を使って、世界から事物を切り取ることができます。
まるでキリトリ線に沿って、形を切り抜くように。
それは、絵画で言えば、風景画や、静物画(テーブルの上の果物などを描いた絵)を描くようなものです。
風景や静物を世界から切り取って、キャンバスの上に描くこと。
それは、目の前の出来事、日常の風景、周囲の事物を言葉で切り取ることと、とても似ていることでしょう。
たとえばこんな風に。
このように、世界から切り取られた事物を、ここでは「切片」と呼びましょう。
言葉によって切り取られた切片は、世界という大きな紙から切り離されて、周囲との関係性を寸断されてしまいます。
それはまるで、切手シートから切り離した一枚の切手、必要事項を書いて,切り取った申込用紙、一回分の容量だけ切り離したロキソニンの錠剤。
全体から関係性を寸断された切片は、孤独で寂しく、不安かも知れない。
だけれど同時に、全体から解放された切片は、自由でもあります。
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2.あるいは縫い目かもしれない
そしてわたしは、切り取った切片を、パッチワークのように並べて繋ぎ合わせます。
切片は解放され、好きなところに行き、好きなように繋がることが出来るのです。
たとえば、こんな風に。
切片のパッチワーク。
こんな風に並べてみると、ふと思うんです。
切片を繋げてできるパッチワークの「縫い目」は、まるでキリトリ線みたいだ、と。
いやむしろ、キリトリ線は切り取るための線でありながら、実は同時に、何かと何かを縫い合わせた「縫い目」なのではないだろうか、と。
キリトリ線 = 縫い目。
言ってしまえば、わたしが今にも切り取ろうとしている目の前の風景は、実は誰かによって縫合された風景なのかもしれない、ということ。
では誰が? 神、あるいは自然?(しかしここでは、超越の話はやめておきましょう。)
世界というものは、実は、互いに関係がない切片同士が縫い合わされて出来ているのかも知れません。
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星座。
全く関係のない星々が、線で結ばれて「星座」という意味を持つ。
路線図。
全く関係のない街々が、線路によって結ばれて「路線」という意味を持つ。
身体。
全く関係のない細胞群が、互恵関係によって「身体」という意味を持つ。
etc.
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3.錯綜したキリトリ線
さて、世界には、切り取るのが難しい錯綜したキリトリ線というものが存在します。
たとえばこんな風に。
あなたにこのキリトリ線がどんな風に見えているのか、わたしには分かりません。
少なくともわたしには、入り組んでいて、ぐるぐる回っているようなキリトリ線に見えます。
どうやら切り取るには一苦労しそうです。
しかし、あきらめずに切り取ってみましょう、錯綜したキリトリ線を。
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「ただいま」とわたしは言った。
「おかえり」とあなたは言った。
「雨降ってた?」とあなたは聞く。
「雨降ってた」とわたしは答える。
「雨の匂いがしたから」とあなたが言った。
わたしは手を洗う。
ラベルが剥がれかかったアルコール消毒液。
帰りに寄ったスーパーで買い物をした。
おかめ納豆、食パン、ジャム、ヨーグルト。
冷蔵庫を開けてわたしは、すこしスペースを広げる。
にんにくチューブの匂い、炭酸水、デカフェの緑茶。
その隣に、買ってきたものを入れる。
炭酸水を取り出す、キャップを開ける。
プシュっという炭酸が抜ける音。
「ごめん、牛乳買い忘れちゃった」
「いいよ、明日、午前中に買いに行くし」
そう言うあなたは、少し機嫌が良い。
小分けに冷凍しておいたごはんを、冷凍庫から二人分取り出して、レンジでチンする。
なぜ機嫌がいいのだろう? とわたしは考える。
あなたを横目で見つめる。
リモコンでパナソニックのブルーレイプレイヤーを起動する。
ディスクが回る音。
食卓テーブルの上に保険会社からの郵便物を置いた、親展の文字。
封筒が雨で少し濡れている、濡れた紙の感触。
空になったペットボトル、二本倒れている。
ふと、あなたの髪色が、深い紫に染まっていることに気がつく。
あえて頭頂部は黒く残していて、何度もブリーチして色を抜いていた毛先が紫に染まっている。
なぜ一目で気が付かなかったのだろう。
「良い色だね」とわたしは言う。
塩とコショウ、残り少ない醤油。
カラトリーボックスに並んだお箸とフォークとナイフ。
スプーンはシンクにある。
「ありがとう」とあなたは言った。
白いお皿がテーブルに置かれた、チャキっと音が鳴る。
カット野菜サラダ、ノンオイルドレッシング。
冷蔵庫に貼られた水トラブルのマグネットシート。
解凍した冷凍ごはんは、すこし冷たくて、だけど温かい。
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4.二つの切り取り方
キリトリ線には、大きく分けて二つの切り取り方があります。
一つは、細かなところを捨象してザックリと切ってしまう方法、そして、もう一つは、繊細に物語を描くように切り取る方法です。
前者はどういうものでしょうか。
たとえば、「日本」という言葉や、「わたし」という言葉、「みんな」という言葉や、「あなた」という言葉。
これらの切片は、抽象的であるために誤解を招きやすいけれど、それなりに形を持っているでしょう。
また、時として細かなことを気にしない大柄な切り口は、青空を切り取る山々の稜線のように泰然としていて、小気味良さがあります。
他方で、後者はどうでしょうか。
物語を描くように繊細に切り取った切片は、たしかに抽象を避けられてはいるけれど、細かすぎて大意を掴みにくいばかりに、誤解を免れないでしょう。
しかしながら、それらは、一つとして同じ形はなく、切り口に機微を含んでいて、見るものを飽きさません。
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お気づきのとおり、「わたし」も切片であり、「あなた」も切片であります。
わたしは、ザックリであれ、繊細にであれ、自由に切り取られ、自由に縫合されるでしょう。
もちろん、あなたも。
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5.キリトリの両義性
「キリトリ」という言葉は、必ずしも良い印象を持たれる言葉ではないでしょう。
誰かの文章を不適切に切り取れば盗作です。
または、文脈を無視して動画の一部分を切り抜いて、都合の良い文脈に縫い付けて恣意的な意味を付与する切り抜き動画、フェイク動画。
悪意あるキリトリは常にわたしたちの近くにあります。
世界のあらゆる事物は、複雑なものであっても、切り取ること自体は可能です、それがいかに乱雑にな切り口であったとしても。
いつどこで誰に切り取られるかわからない、あるいは、自分がそういう切り取り方をしてしまうかもしれない。
キリトリ線や縫い目の欲望は、いつも近くにあるのです。
だけれど、その欲望は「ある種の可能性」であることも事実です。
その可能性とは、切り取りと縫い合わせによって、今までにない別の意味を生み出すということ。
別の言い方をすれば、接ぎ木する、接ぎ木されるということ。
切片を、別の切片に繋ぎ合わせるときに生じる何か。
接続し、接続されるということ。
キリトリと縫合による接続は、危険性と可能性が表裏一体の出来事なのです。
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6.あなたの手を伸ばして
きっとわたしは、誰かの文章を読んで、誰かの音楽を聞いて、誰かの絵を見て、そこから何かを切り取ります。
そして、それを大事に取っておいて、別の何かに縫い付けます。
パッチワークを作るということ。
もしも、わたしの書いた文章が、誰かに切り取られて、誰かのパッチワークの一部になれたなら、それはとても光栄なことです。
文章の引用や、批評や感想という営みによって作られるパッチワーク。
あるいは、そんな小難しいことは必要ないのかもしれません。
もっと簡単に言ってしまえば、わたしとあなたが手を繋ぐことだって、広義のパッチワークでしょう。
切片同士が手を取り合うということ。
手を取り合うこと、触れ合うこともまた、さまざまな意味で危険性をはらんでいるけれど、それでも。
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手を繋いで作るパッチワーク。
その欲望の根底には寂しさがあります。
世界から切り取られた切片は、たしかにどこにでも行ける自由な存在です。
だけれど、その自由には寂しさが付き物。
切片は、寂しいという独りよがりな感情を根底に、あなたとの繋がりを欲望するのです。
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これは、キリトリ線であり、同時に縫い目でもある。
この線は、切り取りと縫合の可能性。
わたしがわたし以外のものと接続される可能性。
いつか、ここから切り取られてしまいたい。
縫い合わされてしまいたい。
誰かと手と手を取り合うみたいに。
そんな風に思います。
おわり
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(再掲)