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エッセイ:物語を自由に楽しむことについて
物語を自由に楽しむ、とはどういうことだろうか。
映画にしろアニメにしろマンガにしろ、どうすれば自由に楽しめるのか。
物語を楽しむ構造を考えてみると「自由に楽しむこと」が難しいことがよく分かる。
物語の楽しみ方について、まず二つの構造がある。
それは、「規律訓練」と「身体のアーキテクチャ」だ。
それはどういうものか。
1.規律訓練
規律訓練は、ルール(=規律)を訓練によって体得することだ。
ルールを内面化することで、そのルールに疑問を持たなくなる。
そしてルール通りであることに快楽を感じ、ルール違反に不快を感じる。
たとえば、マンガ『ワンピース』はそれをうまく使っている。
マンガ『ワンピース』の物語はザックリ言うと、海賊であるルフィとその一味が、強敵をバッタバッタと薙ぎ倒していく物語である。
このマンガの規律は、ひとことで言えば主人公ルフィが勝つ(=正しい)ということだ。
ルフィが勝つことが正しい、そのルールの明快さに加えて、さらに巧妙なのは、物語の中でルフィは必ず一度負けそうになることだ。
必ず負けそうになる(ルール違反)ことで読者は不安(不快)を感じるが、やっぱり逆転勝利する(ルール通り)ので読者は確実に楽しめる。
ルール通りの快楽の上に、さらに不安からの解放という効果が乗る。このマンガは、二倍の快楽で出来ている。
ルール(規律) 主人公ルフィが勝つ
一度ルフィが負けそうになる(ルール違反)=不快・不安
↓
やっぱり最後はルフィが勝つ(ルール通り)=快楽・感動
他にも『葬送のフリーレン』や『名探偵コナン』など、主人公が絶対に強く(最強長寿のエルフ)、絶対的な正義(犯罪を暴く探偵)である物語には、少なからず規律訓練的な構造があるだろう。
主人公が正しいという規律(ルール)、これは言い換えれば、魅力的な主人公がいる、ということだろう。
そして、その構造(規律=魅力的な主人公が勝つ)に鑑賞者がうまく乗れれば、細かな機微は気にせずとも、とりあえずは物語を楽しめるのだ。
規律訓練はルール通りであることに快楽を感じ、ルール違反に不快を感じる。
それは体育会系的なノリである。先輩の言うことは絶対、というような構造だ。
身体で覚えてしまっているため、一旦体得すると、それに疑問を持つことが難しい。(ワンピースにおいてルフィが勝つことが正しくない、と主張することはとても難しい。)
しかし、規律を体得さえすれば細かいことは気にせずとも物語を楽しめるのである。
2.身体のアーキテクチャ
もう一つは身体のアーキテクチャだ。
アーキテクチャとは「構造」のことである。
物語の鑑賞は身体を介して行われる。ようは、眼で見て、耳で聞いて、肌で感じる。
この、眼、耳、肌、のようは身体の構造を前提にして、作品は造られている。
ポイントは、身体は物語を楽しむうえで物理的な条件であるということだ。
具体的に言うと、ようは、映画が2時間くらいがちょうど良い、ということがある。ずっと座っていられない、というのは物語を楽しむための身体的な条件だろう。
他にも、マンガは視線誘導されたり、背景を抜いてるコマを適度に入れると読みやすい、アニメは動きをつけると見やすい、などもある。
このように、物語というものは、たいていの場合(もっと言うと売れている作品ほど)観る側の身体条件に寄り添った作品づくりがなされている。
映画であれば、悲しいシーンで悲しい音楽を、盛り上がるシーンで壮大な音楽をかける。眼で観るシーンと耳で聴く音をリンクさせると、見易い。
あるいは、映画『君の名は』のような感情曲線を意識した作品造り。
作品需要する身体の構造を、作品造りの条件にするということ。
言い方を変えよう。作品が面白いから楽しめる、というより、作品が観易いから楽しめる、ということ。
何か分からないけれどずっと観ていられるネトフリのドラマ、クリックし続けてしまう無料マンガ、めくる手が止まらなくなる小説。
ようは制作側がユーザーフレンドリーに作り、ユーザーがストレスなく楽しめるということ。
3.「物語を楽しむこと」と「物語を自由に楽しむこと」
作品を規律訓練と身体のアーキテクチャで楽しむ。
ルール通りであることに快楽を感じ、とても身体的に観易い作品造りだからストレスなく楽しめる。
しかし、この二つの構造において物語を楽しんでいる時、わたしたちは本当に物語を自由に楽しんでいる、と言えるだろうか。
ポイントは「自由に」である。
規律訓練と身体のアーキテクチャは制作側の創意工夫であり、それ自体を否定しているわけではない。
しかし、制作側の敷いたレールの上をただ歩くことは「自由」とは言えないのではないか。
つまり、制作側の創意工夫に対して、鑑賞側の創意工夫が試されているのではないか。
わたしは、制作側が用意した規律訓練と身体のアーキテクチャに則って作品を楽しむことを否定しているのでもない。
ただそこに「それとは違う楽しみ方」を加えようとしているのである。
別の仕方でも楽しめる、と言うのが、鑑賞者の自由を担保する。
では、どういう楽しみ方があるだろうか。
4.物語の自由な楽しみ方
一つは、作品外との接続である。他の作品との相違を比較する。
ある作品とある作品はこの点で似ているがこの点で異なる、その相違点が作品理解を「別の方向に解放する」のではないか。
または、自分の人生の文脈に引き寄せたり、社会問題に引き寄せてみたりする。このように作品を作品の外に繋げていく方法である。
また別の方法として、副題を探す、というものがある。
メインの作品ルール(規律訓練)を転倒させて、まるで別のテーマが最重要であると考えてみる。
他にも、同じ作家の作品を縦に並べて順に読んでみる。作品制作の変遷を追ってみるというやり方もあるだろう。
どれも鑑賞者の創意工夫が必要だ。
(形のみを楽しむ、という方法もあるが、ここではあくまで物語の楽しみ方を考えているので括弧内の注記にとどめる。物語のではなく「作品の」自由な楽しみ方であれば形の楽しみ方が前面に出てくるだろう。)
物語の楽しみ方は必ずしも一つではない。自由に選べる。
したがって、唯一正しい楽しみ方というものが存在するわけではない、と言うこともできるだろう。
自分の考えた楽しみ方がまだ唯一正しいと言いたくなる気持ちも分からなくもないが、それでは「自由」を手放すことになる。
物語を自由に楽しむために、規律訓練と身体のアーキテクチャの外側に向かう。
制作側が作ったルールを楽しみつつ、別の楽しみ方を試してみる。
鑑賞者が別の鑑賞を創作する。
創作する鑑賞者こそ、自由な存在なのかもしれない。
おわり