感想文:月世界の白昼夢(『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』)
『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』を観てきた。
アーティストであり、ミュージシャンであり、表現者である、デヴィッド・ボウイの人生を彼のインタビュー、ライブ映像などからたどる伝記映画である。
作品ごとに変化を続けるボウイに、一貫した線を持たせていた。
それは「カオス」から何を持ち帰るか、ということ。
善悪が決められた世界、秩序だったこの世界の外側としての「カオス」。
カオスの世界、それは「善悪」が決定しているこの世界の彼岸にある。
ボウイのニーチェへの言及からスタートする本編。
善悪の彼岸へ何度も旅するボウイの創作活動は、まさに月世界の白昼夢であった。
平成生まれのわたしにとってデヴィッド・ボウイを同時代的に受容できたわけではない。
そんなわたしでも、ボウイに出会ったときは、もちろんジギー時代のボウイに魅了された。
ジギー時代でのボウイの若者人気はライブを映画作品にした「ジギー・スターダスト」を観れば一目瞭然だ。
ジギー時代の曲で、わたしの最も好きな曲は「Starman」である。
ジギー時代のボウイは積極的に「抑圧された自己」を肯定してみせた。
ボウイは孤独を抱える人々に君はひとりじゃないと歌う。
また、ベルリン時代の「station to station」のような一般受けしない曲のカッコよさにも惹かれていた。
ボウイの創作活動や人生を見ると、いま三十代のわたしには、ベルリン時代以降に自然と関心がいく。
若者から壮年へ移る時期、アイデンティティへの期待や可能性の賞味期限が切れ、どうしても現状を受け止めなければならなくなる。
自分自身を見つめなおす必要がある時期。
わたしがこれまでに作ってきたもの、わたしを構成するもの、わたしが影響を受けてきたものを引きはがして、裸になるということ。
自分の新しい側面を見つめなおす。
別の一歩を踏み出す方法を模索するベルリン時代のボウイの姿は勇気が出る。
若者から壮年へと移る時期は、実験の季節である、ということ。
ボウイの後期。
ジギー時代のとんがった感性ではなく、もっとしなやかな感性というか、これまでの活動を総合して、真摯にカオス(善悪の彼岸)に向き合って創作するボウイの自由さがすごく素敵だった。
この感性が「ブラックスター」の中盤の解放された美しいメロディーに繋がっているように思う。
ボウイの作品群は、ボウイの人生、ボウイの創作活動全体を受け取ることであることを、再確認する映画だった。
また、同時代的な映像や、白昼夢の演出など、映像も楽しいものだった。
いい映画観たなあ。
おわり