人として。
学校に行っても人に聞いても、パーソナリティは教えてくれない。
小学生のころ「人間性に問題がある」と言われ続けてきた私は、内心びくびくしながら人と関わってきた時期があった。
善良な人になれとは言われるけれど
何をもって善良というかを私は知らない。
意地悪な人との付き合い方だって教えてくれなかった。
友人とうまく付き合うことは学んだけど
友人というものがなにかということは教わらなかった。
でも人とぶつかり、傷つき、知ることになった。
人間関係とは流動的で主観的なものだと。
優しいというのも観測的で客観的である。
「優しくしなさい」は言うくせに、何が優しさかなんて誰も教えちゃくれない。
「これは優しい」と思うのも、対応された側が優しいからである。
相手だってそれができうることだからこそ「優しい」と気付ける。
同じレベルの優しさを持っている人じゃなきゃ、それが優しさだと気づかない。
だからこそ人の優しさには人一倍敏感になりたいし、それを褒められる人には敬意を示したい。
団体というのは宗教と似ているという話になった。
何か大きなことを成し遂げるとき、時には協力してくれる誰かが必要になる。
それはお金だったり精神面だったり時間だったり、何を差し出してくれるのかが違ったとしても、その人を繋げる何かがある。
まずは『無関心』のところから「この人(この団体)面白いことしてる」という『認知』のフェーズヘ進むため、
・自分の知名度を上げること
・「面白い」と思ってもらえる(=人の興味を惹く=なかなかない独創性?)ようなコンテンツの組み方をすること
が必要。
そして『認知』のフェーズから、SNSならフォローしたりいいねしたりする
所謂『興味を保つ』フェーズヘ進むため、
・持続して活動を続けること
・常に自分が何を考えているのかアップデートし続けること
・連絡を取り続けること
・思想を発信し続けること
が必要。
それでも人は離れていくものだと思うから、今いる人を大切にするというのが私自身大事にしたい想いではあるけれど。
そしてその中で余裕がある人たちが『お金』という形をもってクラウドファンディングなどで寄付や投資してくれたり、『時間』や『行動』という形をもって話を聞いてくれたりプロジェクトに参画してくれたりなど、「応援者」ではなく「協力者」としてかかわってくれるようになる。
この流れを確立するためには、自分自身が魅力的であることしか方法はない。
しかしそれは「他者から見た魅力」であり、主観的ではない。
人に合わせることは人間が社会的な生き物である限りあることだけれど、
自分がやりたいことに関しては誰かに合わせることは絶対にしたくない。
だからこそプロダクトアウトな人生なわけでめんどくさいと思われがちなわけなんですが、「我は我が道を行く。ついてきたければどうぞ」精神でやらなきゃ気が持たないし。
そこに応援してくれる人や時間を割いてくれる人がいるいないにかかわらず、自分のやりたいことにひたすらに向き合って進むのみです。
そんな我儘かつしなやかさのかけらもない自分に対して現時点で精神的、時間的に費やしてくれている人たちに感謝を示しつつ、自分自身まだまだ成長への可能性を秘めているのかもしれないということにもまたワクワクする。
やりたいことやってれば、自然とどこかから似ている人が寄ってくるような気もしていて。
最初は「仲間がいないとやりたいこともできない!」と人を集めるのに必死になっていたけれど、いろいろと意見交換し合いながらやるには少ない方がやりやすい。
実行には大人数必要だけれど、一緒に夢を見るのは1枚のピザを2ピースずつ分けられるくらいの人数でいいと思う。持論ですけども。
あ、私は3枚くらいほしいな…。おなかが減りました。
でも今口内炎ができちゃってて、食べ物食べるにもおいしいよりも痛すぎて大変が勝つんよね…
早く治ってほしい。