大人の読書感想文を始めて、過去の自分と出会えた話
初めてその単語を聞いた時は、恥ずかしいかな、卑猥な何かかと思っていた。
子どもの頃には読めなかった本を読んでみないか、と彼は言った。僕はイマイチ趣旨がよくわからなかったので、面白いことなら何でも良いよ、と答えた。大人の読書感想文、彼は確かにそう言っていたと思う。
ご多聞に漏れず中高生の時にかぶれていた僕は、中二病全盛期の時にも、事あるごとに読書が趣味だと答えていた。サッカー部でバリバリならしながらも「読書もできちゃいます」アピールがカッコイイと信じて疑ってなかった。実際今でも、それは少しカッコイイんじゃないかと信じている。たしか、中学1年生の時に「ハリー・ポッター」の第1巻が出て世間的にも流行り始めた時ではなったか、大体そんな時分の頃と思ってくれれば良い。ちなみに、クラスで仲の良かった女の子は上遠野浩平の「ブギー・ポップは笑わない」を読んでいて、事あるごとに僕に電撃文庫を勧めてきた。今考えると確かに色々かぶれていたのだと思う。
高校生になると、またメーターがよくわからない方向に振り切って変なジャンルに没頭した。というフリをしていた。ヘミングウェイの「誰が為に鐘はなる」が好きと公言し、ヘルマンヘッセの「車輪の下」を常に片手に持ち歩いていた。いわばファッションである。ちなみに勿論それらの中身は全く読めておらず、1ページ目を開いてはそっと閉じるを永遠に繰り返していた。あんな意味不明な物語、まともに読めるかよ。
結局、僕が中高時代を通じてまともに読破できたのはミヒャエル・エンデの「果てしない物語」くらいだった。いやそれ児童文学だからというツッコミは無しだ。これでも頑張ったんだ。ちなみに当時の彼女が勧めてくれた村上春樹については、主人公が射精しすぎで気持ち悪かったので速攻で読むのをやめた。
大学生になって、ハードボイルド文学がカッコイイと思うようになった。フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」とチャンドラーの「ロング・グッドバイ」にチャレンジしてみた。やっぱり全然ダメだった。この頃から本格的に、もはや本はファッションアイテムになっていた。数ページパラパラめくっては飽きてしまう僕が大学4年間で唯一読みきれたのは、トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」くらいだった。村上春樹は、翻訳をさせたら最強の作家だとこの頃知った。ちなみにオードリー・ヘップバーンはめちゃくちゃ美人だった。
思い返せば、SFにハマってみたこともある。正確にいうと、ハマろうと努力してみたこともある。クラーク、アシモフ、ハインライン。どれもカッコイイ。読んでるだけで身体から知的な匂いが漂ってくる気さえする。でもやっぱり、読みきることなんてできなかった。本を買ったらそれで満足してしまうのだからどうしようもない。「僕はクラーク、読んでます」アピールだけで気持ちが満足してしまっていたのである。結局、SFでもまともに読むことができたのはハインラインの「夏への扉」だけだった。いやそれSFじゃねーよとかいうツッコミは無しだ。これでも頑張ったんだ。ネコ小説だって素敵じゃないか。
僕の読書遍歴としては、以上といえばそれまでになる。本が好きと言いながら、結局、まともに読書できたためしなんてそれこそ数える程しかない、負の歴史だ。
最近、オモコロで「積ん読」の魅力を語る記事が上がっていた(https://omocoro.jp/kiji/260351/)。好きなライターである岡田悠さん(@YuuuO)やダ・ヴィンチ・恐山さん(@shinadayu)が楽しそうに積ん読の魅力を語っているのを読んでいると、なんか許された気分になってしまう。仕事を終えた金曜日の夜に、積ん読あるある、結局積んじゃうんだよねーという同意をつまみにしながら、レモンサワーでぐでんぐでんに酔っ払い薄れゆく意識の中で、僕は自分のこれまでの不甲斐なさが少し解消されるような、そんな暖かい気持ちに包まれていた。
次の日目が覚めると、なんとなく、読書を再開してみようという気持ちになっていた。再開というのもおこがましいくらい、新鮮な気持ちで「本」と向き合ってみようと思った。自分の中の、本に対する何かが変わっていた。土曜日の昼下がりの午後、早速、久しぶりに本屋に寄ってみる。本の匂いが僕の中の何かを刺激する。店内をぶらぶらするのもそこそこに、何気なく手に取ったのは、ヘミングウェイの「老人と海」だった。これも高校生の時に読みたかったけど読めなかったものの1つ。会計を終え、スタバに駆け込み、意を決して、1ページ目をめくるーーー。
ーーー気づいたら読み終えていた。何時間経ったのかわからない。時間の感覚もない。ただひたすら、「老人と海」の世界に没頭していたのだと思う。
読み終えた後、スタバを出る。不思議な感覚が僕を包んでいる。正直、物語そのものに対する感想はない。文体とか表現とか、小説という作品に対する感想もない。書き手であるヘミングウェイに対する感想も、全くない。あるのは、過去、その本を読まなかった当時の自分に対する思い、ただそれだけ。ポジティブなものともネガティブなものとも言えないそれは、あえて表現するとしたら、望郷の思いに近いのかもしれない。あの時、ヘミングウェイを読もうと思っていた自分。そんな自分自身に再び会えたような、懐かしさを感じていた。同時に、もし自分があの時ヘミングウェイを読みきっていたら、どんな感想を抱いていたのだろう。その想像が、自分との対話な気がして、また嬉しかった。
空はすっかり夕方になっていた。師走の夕暮れ時は寒い。
帰り道の空を見上げながら僕は、これからも本を読もうと思った。これまでの人生で出会い、読もうとして、けれども読まなかった本たちを読もうと思った。内容もわからないし、面白いかどうかもわからないけれど、その本たちを通じて、昔その時の自分自身に出会えることを知ったから。
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皆さんも、大人の読書感想文、試してみませんか。過去の自分との発見があるかもしれません。