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釣り人語源考 謎の「はらか」
平安時代中期、源順が編纂した辞書『倭名類聚抄』にいろいろな魚名が掲載され、その漢字と日本語の訓、漢籍の引用や故事をあげて、その魚を説明している。
その魚の名前のなかには、時代が過ぎると徐々に何の魚を指しているのか不明となっていて、現代はもちろん江戸時代においてもその魚の正体はなんであるのか比定することを、それぞれの本草書や辞書を編纂した著者たちはチャレンジしてきた歴史がある。
古事記や日本書紀や養老律令などなど、太古の日本の文献は江戸時代ではすでに過ぎ去ってしまった謎の記憶の断片であったのだ。
『倭名類聚抄』(略して和名抄)には色々バージョンがあって「20巻版」の「第十九巻」の鱗の生物に魚類が載っている。
そこに「鰚」という魚が記載される。
巻19・鱗介部第30・竜魚類第236・3丁表9行目 鰚魚 弁色立成云鰚魚[波良可音宣今案所出未詳本朝式用腹赤二字]
「”鰚”は日本語で”はらか”、音読みでセン、由来はわからないが、本朝式(延喜式など)では”腹赤”の2文字で書かれている。」
この「腹赤・はらか」という魚の正体が後世では分からなくなってしまい、「ニベ」説、「マス」説、「ウグイ」説がある。
それぞれを検証してみよう。
『延喜式』の「内裏式」に「腹赤の奏」という儀式が載っている。
説明を読むと腹赤の奏は、毎年1月14日、九州の大宰府から朝廷に天皇の供御として献上された「腹赤」という魚を、内膳司が受け奏する儀である。
内膳司というのは天皇の日常の食事の調理や配膳、そして食材の調達をする宮内省の部署だ。
この儀式の面白いところは、「腹赤の食い様とて、食いさしたるを皆取り渡して…」と室町時代の辞書に書いてあるところだ。
想像するに大皿に乗った"腹赤"を、天皇を始め出席した者たちが少し食べて、その食いさしをそのまま次の人に回していく、といった感じだろう。
更に説明を読むと、…景行天皇の代、熊襲征伐の帰途において筑紫宇土郡長浜で海人が、また『肥後国風土記』では肥後国玉名郡長渚浜で棹人が、これを釣り上げ天皇に献上したとされる。天平15年(743年)1月14日に大宰府から献上されてから、毎年節会に供すべきことが定められた。806年(大同元年)、民力休養の一環として献上は停止されたが、嵯峨天皇の代に復活した。
聖武天皇の世に太宰府から腹赤が献上された時、感動した聖武天皇が景行天皇の故事をあげて毎年の正月の料理にすべしと決めた訳である。
現代においてもこの「腹赤」という伝説の魚に由来する地名を持つ町が残っている。
熊本県玉名郡長洲町腹赤にある腹赤小学校のホームページを参照すると
「四方の海 波静かなる御代なれば腹赤の贄もけふ供ふなり」
「腹赤の魚が無事に元日の節会に供えられたことは、四方の海静かな泰平の御代で、大へんめでたいことである」~衣笠右大臣の歌~
『天平15年(743年)正月14日、太宰府より景行天皇の故事にならって、初めて肥後の名産である腹赤の魚を朝廷に献上した。時の聖武天皇は大へん喜ばれて、毎年正月元日の節会に供える式魚と定められた。』
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同じく熊本県玉名郡長洲町の上沖洲に鎮座する名石神社は、別称「女石宮」と伝わり、景行天皇を追ってきた御刀媛が入水し石になってしまわれた。干拓事業により石が地上へ露出してしまったので鎮魂のため神社に移設したといわれる。
十三年夏五月、悉平襲国。因以居於高屋宮已六年也、於是其国有佳人、曰御刀媛(御刀、此云彌波迦志)、則召爲妃。生豊国別皇子、是日向国造之始祖也。
≪現代語訳≫
景行天皇即位13年夏5月。襲国を平定した。高屋宮に居るようになってすでに6年。その国に佳人がいた。御刀媛という。すぐに呼び寄せて妃とした。豊国別皇子を生んだ。この皇子は日向国造の始祖である。
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火山より噴出した「噴石」である
神社には「腹赤の奏」の史跡がある。
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元旦に釣った魚を運び、1月14日の節会に使うと分かる
社伝には「腹赤」の由来として「景行天皇は熊襲を平定せられ帰路島原より御船にてハラアカの浜に着御んせられました。そのとき魚を釣るのを御興深く御覧になり魚の名をハラアカと付けられました。」とされる。
また近くには「供御の池」という場所がある。
腹赤の贄として献上する魚を、この冷たい泉の湧く池に活けて、今でいう冷凍の役目をして太宰府を通じ、京の都に送ったと言われています。
海で獲れる魚を京都へ出荷するのに、池で活かすのもおかしな話である。冷たい淡水で魚の血抜きをしっかり施して、布で包んで梱包して送ったのだろう。
長洲町腹赤の地名の由来を、『肥後国風土記逸文』には
「景行天皇巡幸の折、朝勝美という漁師が魚を釣って献上した。マスに似ているが名が分からない。天皇は『物の多いのをニベサニという。この魚も多いので、にべ魚というべし』と名付けた。」と説明している。
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「ニベ」説の根拠は肥後国風土記逸文だが、明らかにおかしな点がある。
まず「腹が赤い」という文が無いし、実際にニベの腹は赤くない。
よく読むと、このエピソードは景行天皇が魚のニベを命名した伝説の由来を説明しているだけだと分かる。
おそらく「むべさに」という諺が古代にはあって、「ムベ」は美味しい植物の実である。「さに」は種の古語であるので、「ムベは美味しいけど、種が多くて難儀だ」という意味だろう。月に叢雲花に風。
それを天皇が「この魚も網を打つと難儀なほど獲れる。”にべさに”だわ。」
というおジョークを奉った逸話だろう。
それが周りの説に引きずられて、単純な笑い話が命名譚へと変化したものを収録してしまったのではないだろうか。
ということは「ニベ」という名前は景行天皇よりもはるか以前からあるはずとなる。
ムベは天智天皇が皇太子の時に諸国漫遊した時に、近江国で献上されたムベがすごく美味しかったので天皇になってから朝廷に献上品として指定したと逸話が残っている。
「むべなるかな」
ニベは全国的に獲れる魚で、数も多い。九州名物でもないし珍しくてとても美味しい…とまではなかなか言えない魚だ。
もし「オオニベ」であるなら日向国の名産品(?)となるはずだもんね。
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また「宇土の長浜」の方は調査しても腹赤の故事は出てこなかった。
多くの歴史家が指摘しているように、景行天皇の足取りを調査すると宇土半島の先端まで行ったのち天草諸島や島原には史跡が無いため行ってはおらず、宇土半島(当時は島)から船で玉名郡長洲町へ移動したと思われる。
その船上で、海人が腹赤を釣る様子を大変興味深くご覧になって、「こりゃスゴイ魚だ」という事でお求めになったが、全国的な名前が無く地方名の「腹赤」だと海人が言ったのでその名前となった…と考えられる。
これが玉名郡と宇土郡に別れた原因だろう。
釣れたのは宇土半島と玉名郡の間の海上の有明海のどこかだ。
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船で移動中に海人が腹赤を釣るのを目撃
宇土長浜のはるか沖だろう
もう一か所「腹赤」が関係する場所が存在する。
福岡県みやま市瀬高町長島にある「釣殿宮(つってんさん)」である。
社記には「景行天皇西遊してこの地に至る。土人腹赤の魚を献ず。後年祠を建て天皇を祀る。腹赤社と称す」と書かれてある。
しかし『南筑明覧』には「天智天皇の心霊を祀る」とあり、
『源平盛衰記』には「天智天皇未だ位に即きた給はざる時、卜者の曰く『君は乞食の相(そう)おわします』と奏しければ『我は位に即きて食すべきに非ず。そなえる相は又のがれがたきか』と申されて、即位以前にその相を果さんと西国修行に出で給ふ。
筑後の国、江の崎より小佐島(長島)という所を通らせた給ひけるに、労れにのぞみ給いけれども供御まいらするものなし。
網を引く海人に魚を召され、御労を休め給う。我位に即きなば必ず供御にし、供えてくれよと思し召され、その名を御尋ねありければ、里人は『はらか』と申したり、帝位に即き給ひて天智天皇と申し奉る。思し召し出づ。里人、『はらか』を奉り帝の供御に備えたり。それより此の魚は祝いのためしに供える事となれり。」とある。
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地元の説話にも「天智天皇が皇太子であった時、食べものの良くない相があったので即位せずに悪相を払うため修行に出た。
筑後国の長島を通る時、とても疲れ空腹であったが御供はいないので誰も食事を出す人はもちろんいない。
すると海人が魚をくれ、里の人が調理してくれて中大兄皇子はとても喜び、魚の名前を聞いたが誰も知らなかった。そこで海人に聞くと「腹が赤いので”はらか”と呼んでいる」と答えた。
素晴らしい魚に感謝した皇子にはすでに悪相はすっかり果たされ、即位した天皇はこのことを忘れないため毎年の祝いの供御とした。」と伝わる。
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当時は有明海は広く、釣殿宮の場所は船で往来できる島で海人の港だったようだ。
伝承からするとたぶん景行天皇を祀る社が島にあり、そこへ中大兄皇子が船で通りかかったのだということだろう。
西行法師の『山家集』という本に、「筑紫にハラカという魚を獲って都に送っている。その魚を獲るために海に綱を引き渡しているので、そこを通る舟がその網にさわると漁師たちがやかましく騒ぐ」とあり、そして
「はらか釣る おおわたざきのうけ縄に 心がけつつ過ぎんとぞ思ふ」
という歌を残している。
おそらくこれは「はえ縄漁」ではないだろうか。
何の魚でも、漁の縄に一般人の船が当たっては漁師はそりゃ怒鳴るよ。
事故を起こされてはたまらんし。
しかも「はえ縄」が揺れたとなれば、「アタリだ!」と騒ぐことになる。
よく考えると、漁師がはえ縄を使うという事は、狙いは「数の少ない大型魚」だったのではと推測する。
この「はらか」はニベであると室町時代から江戸時代までは信じられてきた。
江戸時代の本草書には、泥海(有明海)の名産としてニベの一種である「コイチ」が紹介されている。コイチは網を入れると大量に獲れるのである。
しかし『和漢三才図会』の寺島良安や『大和本草』の貝原益軒は、腹赤はニベではなく「マス」であるとした。
確かにニベではない。だって全部銀色だもん。
『和漢三才図会』の「鱒」の項目には、
鱒 鮅 赤眼魚 鰚 腹赤魚【和名萬須又云波良】
本綱鱒似鯶而小鱗亦細於鯶赤脉〔=脈〕貫瞳身圓長青質赤章好食螺蚌善子遁網性好獨行尊而必者【故字從尊從必】
按鱒景行天皇時從肥後宇土郡長濵貢之【聖武帝時自太宰府貢之毎正月元日有腹赤魚贄云云】今東北國多有其肉【甘溫】美於鮏多食發瘡
年中行事 初春の千代のためしの長濱につれるはらかも我君のため
「鱒 和名ます・はら 鮅 あかめうお 鰚 はらかうお
『本草綱目』(明の事典)には"マスはアメノウオに似て小さく、ウロコもアメノウオより細かい。赤い筋が瞳を貫き、身の断面は丸く身体は長い。青い下地に赤い斑点がある"
案ずるに景行天皇の腹赤魚の贄うんぬんはこの魚で、今では東北地方に多い。・・・」
また『大和本草』のマスの項目では
鱒 本草所記鱒ノ形本邦ニ所称マスニ能合ヘリ又和名ヲ腹赤ト云
公事根元曰景行天皇ノ御時筑紫国宇土郡長濵ニテ海人是ヲツリテ奉ル聖武ノ御時大宰府ヨリ是ヲ奉ルコレヨリ毎年ノ節會ニ奉ル
今モ筑州ノ千年川ニ鱒多シ千年川ハ大宰府ニ近シ
鱒味雖美性不好病人不可食金瘡産後最忌之且發瘡疥
山中ニ榎ノ葉ト云魚アリ形味ヨク鱒ニ似テ小也味ヨシ長六七寸春山川ニ上ル小ナルユヘ性輕シ凡諸物大小アリ是鱒ノ類ニテ小ナル也
「『本草綱目』に書いてある「鱒」は我が国の「マス」とよく合っている。
腹赤はマスの別名だろう。
景行天皇の御世に筑紫で海人が釣って奉り、聖武天皇の御世に大宰府より献上した。今も千年川(筑後川)にはマスが多いし、大宰府に近い。
「エノハ」(ヤマメ)ってマスに似ていて小さいのもいる。」
江戸時代の本草学者がそろって「はらか = マス」としたのは、おそらく釣殿宮のある筑後国山門郡瀬高や、腹赤の浜である肥後国玉名郡長洲が江戸時代には内陸となっていたことと、マスの地方名に「はら」があること、身肉が薄い朱色であるためだろう。
江戸時代のパロディ小説である「仁勢物語」には「その里にいと生臭き魚、腹赤といふ有りけり」とマスらしき魚を描写しているシーンがある。
しかしサツキマスの本来の分布域は、九州では瀬戸内海や太平洋側に注ぎ込む河川やその内湾であるので、筑後川や大宰府にある御笠川にはサツキマスはいなかったと思われる。
ニベよりマスの方が美味しいとは思うが…
それに里の人がマスの名前が分からないなんてありえるのだろうか。
そしてやはり海の魚という伝説であるのに、マスというのも不自然だ。でもまあ降海型なので海でも釣れなくはない。
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そして現代の学者たちは腹赤を「ウグイ」だと同定している。
理由としては、春の繁殖期にオスが「婚姻色」をまとって身体に赤い筋が頭部の下方から腹にかけて出る。
そのため地方名に「アカハラ」というのがあるためだ。
一応、旧暦の正月頃ならば「寒バエ」として美味しい。
しかし景行天皇や中大兄皇子が食べた時期は不明だし、感動するくらい美味いかと言えばなんとも言えない微妙な位置だ。夏場は非常にドロ臭い魚だし。
そして「腹赤の奏」でウグイを皆で取り分けて食べるのはちょっと不自然だろう…朝廷の正月の祝いの式で、参列者が5~6人なんて考えられない。
最も不自然な点は有明海で海人が「はえ縄漁」でウグイを狙うのかという点だ。
ウグイも川を下って海で釣れることはあるが、河口付近の漁港でたまに釣れることもあるよってレベルで、海で漁師がウグイを狙うなんて、釣り人から言うとマジありえません!
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ではお前は「はらか」を何だと考えているのか?と聞かれて答えないとこんな「釣り人語源考」なんてやってないです。
もう答えは分かっている。
とりあえず「はらか」についてまとめると
九州地方の海に生息する。有明海の長洲町の沖合で捕獲された。
海人が釣っている様子を見て景行天皇が非常に興味を持った。
里の人が見たことがない魚だが、海人は名前を知っていた。
非常に大型の魚である。朝廷の儀式で取り分けて食べていた。
めったに釣れない。後に漁師がはえ縄漁で狙っていた。
食べるとめちゃくちゃ美味い。天皇や皇子が感動するくらい。
血抜き処置して冬場に15日間かけて畿内に運搬しても食用できる。
名前が「腹赤」である。特徴が身体が赤い魚であること。
体型がマスに似ていて紡錘形である。非常に速く泳ぐ体格の魚である。
景行天皇が海人の釣り上げる様子を見て感動し、中大兄皇子が食べて感謝し自身の呪いが晴れてしまう、それくらい凄い伝説の怪魚がニベやマスやウグイであるはずがないんだ。
これらの条件をクリアする、釣り人が憧れる巨大魚がちゃんと存在する。
それは「カンパチ」だ。
アジ科ブリ属の「カンパチ」は最大190㎝・80㎏となる巨大魚で、圧倒的パワーとスピードを備えた海の帝王だ。
そして食べても最上級で、カンパチの刺身や寿司は帝王の名にふさわしい美味さだ。
ちょうど旨味が熟成されるのが15日後である。
そして実際に巨大カンパチを釣った事のある人は滅多にいない。
道具や素材が発達した現代においても、巨大カンパチは釣り人の挑戦をことごとく跳ね返す。
1800年ほど前、竹の竿と楮の縄だけで巨大カンパチを釣り上げ、景行天皇に献納し直々に称賛を得た海人は、その名前を現代にまで残している。
そしてその魚は朝廷の元旦の儀式に相応しいものであるとされたのだ。
そしてブリやハマチが有名で人気の魚であるのに対し、メディアの発達した現代でも、その辺のおばちゃんに写真を見せて「あらカンパチね」と即答なんてあり得ない。
そんな知名度の魚なのだ。
カンパチは九州地方では「アカバナ・アカバラ」と呼ばれ、他のブリ属とは「赤い」として区別されている。
アカバナは赤腹がなまった名前と思われ、カンパチの由来も額の模様から「間八」とか言われるが、おそらく「赤んパラ」からの名前だろう。腹(ハラ)や平(ヒラ)は「魚体が平たい」を指す漁師言葉だ。
腹が赤いのではなく、要するにブリやヒラマサと比べて「赤く平たい」という意味の名前だ。
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・・・「腹赤」の正体は「カンパチ」だと聞いて納得するのは釣り人だけだろう。
ブリやヒラマサと比べて「赤い」なんて一般人には全く知らない、釣り界だけの常識なんだから。
しかしそれもまた良い事だろう。
里の人間は想像もつかない、我々海人だけがどんな魚か知っている…
それも釣りのロマンのひとつなのだから。
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