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智慧と方便の順番

形あるものと同じように、
形のない意識にも
原因と結果がある。

同じように、
特定の結果を得るためには
特定の原因と条件が必要になる。

それだけではない。

Aの次はB、という順番で
積み上げていくレシピもある。

例えば、菩提心を起こすために

①果てしない輪廻の中で、全ての衆生が母であったことがあると、知る。
②母であった時、よくしてもらったことを思い出す。
③恩返ししようと思う。
④衆生皆んなを大好きになる。
⑤衆生皆んなを助けたいと思う。
⑥自分が衆生皆んなを助けるんだと強く思う。
⑦衆生皆んなを助けるために、仏陀になるための修行を始めると決心する。

と7段階あるようなものだ。
後の段階は、前段階の基礎がないと
育たない。

『良くしてもらったなぁ』と思わないと、
『恩返ししよう』とは思わない。

違う見方をすれば
『良くしてもらったなぁ』と強く思えば、
『恩返ししよう』と思うことは
難しくない。

修行の道を登っていくためには
智慧と方便の両方が必要であると
先日書いたが、

その2つにも
どちらを礎にするか
という話がある。

順番を考えれば、
菩提心を起こす前に空性を悟る者と
菩提心を起こしてから空性を悟る者で
前者を鋭い者(頭脳先行タイプ)
後者を鈍い者(ハート先行タイプ)と
いうこともあるが、
ここでの意味は別のこと。

菩提心と空性を悟る智慧の
どちらがベースになるか?
ということである。

空性を悟ってステージを上げていくので
一見智慧の方が大切そうに見えるが、
そうでもない。

実は、先ず自分のみの解脱を目指す
声聞や独覚の修行者も
空性を悟り、
それを瞑想で深めていく。

空性に違いはないのだが、
彼らは自身の(輪廻からの)解脱を得るのみで
仏陀にはなれない。

皆んなを助けたい一心で修行する菩薩は、
空性を悟り、瞑想していくことによって
解脱を得るだけでなく
仏陀にもなる。

同じことを勉強して瞑想しているのに、
結果が違うのだ。
なんでやねん。

菩薩の場合、
全ての衆生を
同時に最も良い方法で助けたくても、
(能力的に)助けられない。
全ての衆生は果てしなく多いし、
その状態を正しく知ることは不可能だから。
それに、全ての衆生に
同時に充分に対応できる
身体や力ももない。

でも仏陀は
全てのものごとの全ての様相を直接に知る
一切相智を持っている。
そして、助けを求める全ての衆生の意識に
最適最善の状態で現れる
自動出現装置のような能力を持っている。

だから、菩薩は
仏陀の境地を目指すのだけれど、
仏陀の智慧へと意識のステージが上がっていく
智慧の部分は
やはり空性をどれだけ悟っているかにかかっている。

彼らの違いがどこにあるのかといえば
動機にある。

一方は自らのみのため。
一方は皆んなのため。

必要とする智慧の使い方が違うので
同じ空性を悟っても
その結果が違うのだ。

菩薩の空性を悟る智慧は
皆を助ける為に自分が仏陀になろうと思う
菩提心を礎にする。

それによって、
自分に関わることだけではなく
他者を助けるために邪魔になる思い込みも
一緒に浄化するのである。

大乗の教えを学び修行する者に対しては
最初から菩提心に重点をおけと
師は説く。

同じ空性を頑張って勉強しても
自分のために使うと
先ず自分の結果を得てから

また仏陀になるために
修行し直さなければならないからだ。

どちらが良いというわけでもない。
個人の好み、
ということになるのだけれど。

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