他空派の宗論 16
第四項[四聖諦の構成を説く]において、苦・集のニと滅・道のニで四ある(四聖諦の)概要は、前述の経量部の折に説いたごとくであるが、異なる部分はここで滅諦について、[浄化される基である勝義]と[浄化された結果であるニ浄を具える滅諦]のニより、
第一項[浄化される基である勝義]
『中辺分別論』より、「二元の事物なく、事物の無い 事物は空の定義である。有ではなく無でもない。別、同一の定義でもない。」と説かれたように、世俗である主客(認識主体と認識対象)が欠如しており、勝義の法性が欠如していないので有無の極辺より解放され、その法性は全ての(法性をもつ)主体に行き渡るけれども定義は合致しない面から、別と同一いずれとしても成立している如来蔵がそれである。
この名を「正しい果て」「勝義諦」「法界」などといい、有垢と無垢のニがある。
それだけではない。法界は全ての様相を具えるので、自らの本性は滅・道の本質を基礎にした上で、三有の業と煩悩の本質としてもあり得る面から、勝義としての四聖諦の構成もある。
第二項[浄化された結果であるニ浄を具える滅諦]
『現観荘厳論』より、「全ての諸法(現象)の真如は、二つの障が浄化された定義をもつ。」というように、自性清浄の法界において、修行道を修習した効果によって全ての一時的な汚れも尽きたニつの清浄を具えた法界が、それである。
これを「残らず捨てた」「確かに捨てた」「浄化し得る」「尽」「離欲」「滅」「寂静」「没した」などの言葉によって述べる。
『阿毘達磨集論』によれば、符号と勝義と、完了と未了と、有飾と無飾と、有余と無余と、特別に優れた滅といい、九滅を説かれた。それより多くの諸々(の名称)は言葉の述べ方(の違い)だけで、意味に前述と違いはない。
四聖諦は
仏陀が成道して初めて説かれた教えで、
仏教徒全てが基礎にする教えである。
①苦諦(くたい:苦しみの真実)
②集諦(じったい:苦しみの原因の真実)
③滅諦(めったい:苦しみが滅した真実)
④道諦(どうたい:滅諦を得るための修行道の真実)
と四の真実があるが、
そのうちの①②④は、
本論で前述されており、
前述と内容は同じなので
ここでは割愛されている。
しかし滅諦については
他空論者独自の見解がある。
それが最も強く見られるのは
「法界は全ての様相を具えるので、自らの本性は滅・道の本質を基礎にした上で、三有の業と煩悩の本質としてもあり得る面から、勝義としての四聖諦の構成もある。」
という部分である。
始まりのない以前から
有情は
法性と不別の智慧、
法界を持ち続けている。
故に
輪廻の中にいながらも
法界と離れることはない。
すると
清浄である法界は、
本質的には解脱や仏陀の境地へ向かう
滅諦・道諦としてあるものだけれど、
全ての様相を含み
輪廻の時にも有情と共にあり続けるので、
三有(生有:生まれる輪廻、死有:死の輪廻、中有:死んでから来世生まれるまでの輪廻)
(地下、地上、天上)における苦しみと
苦しみの原因になっている
業(カルマ)と煩悩にも
それら全ての基として行き渡っている。
自空論者が
「滅諦と道諦を得るのは、
空性を直接悟ってから」
と説くこととは大違いである。
故に、勝義、究極のあり方として、
法界を持ち続けた上での四聖諦のあり方も
特化した説明があるという。
また、
滅諦は涅槃と同義とされる。
自空論者にとって、涅槃は
修行を積んだことによって
以前なかったものを新しく得ることになる
一つの清浄である。
対して他空論者にとっては、
法界=涅槃は
もともとあった清らかな部分(自性清浄)と
修行によって新しく得た清浄の
二つの清浄を具えるものになる。
法界には
さまざまな呼び名があり、
いろいろな分類もあるけれど、
本質的な意味に違いはない。
法界は常に
われわれ全てと共にある。
それに氣づくか氣づかぬかで
同じ場所にいながら
違う世界にいるような
異次元を感じているような氣がする。