他空派の宗論23
第三項[それを例をあげて確信する]において、[九例の本質][それを示す目的を示す]のニより、
第一項[九例の本質]
『大乗究竟一乗宝性論』より、「帝釈天、大太鼓、雲、梵天と、太陽、宝石、宝のごとく、如来はこだまのごとく、虚空と地のごとくである。」と説かれ、如来が御身のさまざまな変化を示されることは、例えば帝釈天が天界から動かずに分身が人界に現れて、幾らかの衆生を善行に促すがごとくである。
その御言葉の法がさまざまな法門を示されることは、例えば神の大太鼓が四聖印を示して、神々に役立つがごとくである。
その御心の智慧と愛情が全てに満ち渡ることは、例えば雲が空を覆い、雨が作物を実らせるがごとくである。
その御身と御言葉の神変を示すことは、例えば梵天は自らの住処から動かなくとも、神変を欲界の神々が見て、利益をなすがごとくである。
その御心である全知の智慧が所化(弟子)の愚かさをはらうことは、例えば太陽の光が闇をはらうがごとくである。
その御心が利他(の働き)をなさることは、例えば宝石から欲望が起こるがごとくである。
その御言葉が衆生のためをなすことは、例えばこだまは真実として成立していないけれども、さまざまな意味を示すがごとくである。
その御身が利他をなすことは、例えば虚空は形あるもの全てに行き渡るけれども、形として成り立つことは無いがごとくである。
その御慈悲が利他を成就する方法は、例えば大地が全ての拠りどころをして役に立つがごとくである。
第二項[それを示す目的を示す]に[所化の迷いをはらう][深甚な認識対象へ入る]のニより、
第一項[所化の迷いをはらう]
『大乗究竟一乗宝性論』より、「努めることなく何らかの行為を、することは見られないので、所化の迷いを断つために、九の例を示したのである。」と説かれ、世間の人々が努めることなく行為をなすことは、誰にも見られないので、そのやり方で(仏は働きをなすのではないかという)迷いを断つために、上記の諸々の例を示したと説かれた。
第二項[深甚な認識対象へ入る]
本論(大乗究竟一乗宝性論)より、「そこにこれらの九例を、詳細によく示したことは、経部のその名称自体で、その目的を示したのである。聴聞より起こった知恵の 大いなるこの光によって荘厳された 賢者は、速やかに仏陀の 享受する対象全てに入ることになる。」という。
『一切仏の享受(認識)対象へ入る智慧の光の荘厳経(?)』のなかで、「如来の事業は自然成就であり、途切れることはない」と示すこれらの九例を詳細によく示されたことは、それを示す経部の名称から、その経の本質的な必要性を正しく示したのであるが、そのような経義のあり方を、最初に聴聞と思惟から起こった「ありさまをあるがままに知る知恵」の大いなる光によって(了解し、)素晴らしく荘厳された知恵をもつ菩薩たちは、速やかに仏陀の享受(認識)する対象、三密の全ての功徳に入ることになる、というのである。
それらによって、要約した宗論の構成を説き終わった。
仏陀の事業が自然成就で途切れぬ例を
九例あげている。
これらの例から分かることは、
仏陀になって利他の行がなされる時には
努力根性はいらないことである。
頑張ってものごとを成し遂げる時には
強い動機があり
さまざまな困難にぶち当たり
自分の存在感を強くして
乗り越えたことに達成感をもつ。
世界の中に
自分という特化した存在がある。
仏陀の事業は
仏陀本人はそこに現れずに
変化身を使ったり、
ぶら下がっている大太鼓が
自然に真理を伝える音を出したり、
衆生全てを何気ない様子で
愛情をもって実らせるなどの例で
提示されている。
我が無く、
全てに行き渡り、
自然で、
実体がなく、
規模が大き過ぎて
凡人では認識できないほどの働きもある。
それらは全て、
所化(弟子)の知覚に現れた時に
弟子それぞれの状態に合わせて
映し出される。
仏側に努力はない。
それを伝える目的も、
われわれ世間一般人が
ものごとを成す時の
働き方とは違うという事を
知らしめるためと、
これらの例を通して
仏陀の智慧がどのようなものか
どのように働くのかを知り、
菩薩は更に深く
未来に自分がなるであろう
仏陀のあり方を知る。
他空派の宗論として記された本文は
ここで終わる。
他空と自空
どちらが良いというのではなく
仏陀へ向かっていくのなら
どちらの見解が
自分の性に合っているのか
量りながら探して頂ければ
幸いである。
あなたの中の法性は
あなたが仏陀になるのを
何気なく空気のように
待っている。