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どうして2つ?

昨日お茶を飲みながら、
友人が質問をくれた。

世俗諦:世俗の真実と
勝義諦:勝義=究極の真実の
どうして2つが必要なのか?
我々が見ているこの世界が世俗の真実なら、
それだけで良いのでは?
どうして究極の真実が必要になるの?
という質問だったと思う。
(理解が間違っていなければ;)

なるほど。
中に入って聴いていると
先生やテキストのいう事を
丸呑みにしてしまいがち。
不思議に思ったことも無かった。

その場で一応答えたが、
何だか自分でもはっきりせず
モヤッてしまった。
(ごめんねYちゃん)

なので
家に帰って改めて考えた。
それをここに書こうと思う。

結論から記せば、
世俗諦は、わたし達が生きていく上で必要。
勝義諦は、わたし達が苦しみを無くすために必要。
なので両方必要になる。

さて、わたし達は、
わたし達を取り巻く世界で生きている。

この世界で生きるためには、
そして幸せになるためには、

世界について正しく知って
それに働きかけなければならない。

わたし達が普通に経験する
客観的に見た世界は
世俗の真実。

自分のしたことは自分に返ってくる。
他者を幸せにすれば
自分に幸せが返ってくるので、

それを正しく行うためには
自分や世界を
正しく認識することが必要になる。
ここに世俗諦の存在意義がある。

これだけで
皆が幸せだったらそれで良いのだが、

世界を正しく知ったとしても
「いまいち不幸だな」
という人もいたりする。

不幸を感じるのは心。
感じなければ、
不幸は存在しない。

心が感じる不幸(苦しみ)は、
身体の苦しみに勝るものだ。
心が幸せなら、
身体が辛くても生きていける。

幸せになりたくて
苦しみから逃れようとするのは、
自然なことだ。

ならばどうやって
(心の)苦しみを無くすのか?

ここで勝義諦が必要になる。

苦しい心にはどんなものがあるかというと、
例えば怒り、欲望、無知という煩悩類。
煩悩の定義は、
「それが生じた途端に心を不楽にするもの」
といわれる。

他にも不安や悲しみ、絶望など、
煩悩に入らないんじゃないかと思う心理状態もあるが、
それらも煩悩から派生して起こる。

悲しみは、その前に執着していた「心地良さ」から離れた時に起こる。
不安は、対象がよく分からない「無知」から起こる。
絶望は、その前に強く執着していた「期待」が外れた時に起こる。

もし今幸せでも、
それに執着(欲望をもつ)をしてしまうと
それが苦しみの因になる。

なので、心の苦しみの原因には
煩悩があるものだが、
この煩悩を無くしていくために
勝義諦(究極の真実)が役に立つ。

煩悩を無くすといっても
煩悩が起こらないように強制的に我慢する
というのではない。

煩悩で思い込んでいたものが
実はそうではなかった
と知ることで、
「あ、間違いだったのね」
と心が自然に離れる方向に持っていく。

先ずは対象を客観的に見ることができる
冷静さが必要とはなるが、
自分の、例えば欲望の対象であれば、
自分が思っているほど
他の人も相手を素敵だと思っているかどうか?
を客観的に見る。

人それぞれ好みは違うから、
そうじゃないことは直ぐ分かる。

ならば
わたしに映っている「素敵」は、
わたしの心が作り出しただけのものだと分かる。

その「素敵」を差し引いて
皆んなが同じように見ている相手を
客観的に見た時、
相手はそのままそこにいるが、

「相手」という引っ掛かりがある限り
いつでも心地良い「素敵」を
付け足す余地がある。
欲望が起こる機会を
潜在的に含んでいる。

てことは、
心地良さから離れることがあれば、
苦しみに転ずる機会も
潜在的に含まれる。

ここで勝義諦を持ち出す。

その「相手」は、
わたし達が見ているように、
本当にそこにあるのか?

わたし達は、例えば「彼」を、
その人の身体と仕草・声音・
それらから推察される性格・
心の状態など、
全てひっくるめて1人の人間として認識している。
「この人」
という風に。

でも「彼の身体」は「彼の声」ではないし、
「彼の性格」でもないし、
「彼の心」でもない。

にも関わらず、わたし達は
いろいろな面から「彼」を認識して、
「彼像」を作り上げて、
それをそのまま
「本当にいる彼」だと思い込んでいる。

これが「彼」に対する実体視。

この思い込みの対象が、
「彼の方から存在している彼」
「彼(そのもの)」で、
「彼」の実在だ。

「実在が無い」というのが
空性であり、勝義諦。
究極の真実である。

「彼」とは、
「彼」の身体や仕草、言葉や様子という多角的な面からわたし達が情報を取り入れて、
わたし達の心に投影されたイメージなのだ
と知れば、

そこに引っかかりは
余りない。

心に映っているだけのものだと
知っているからだ。

でも目の前に彼はいる。

ならば彼を喜ばせることをしよう。
彼が笑えば、わたしも嬉しい。

このくらいの軽さで
「彼」と付き合える。

勝義諦を知っていると、
要らぬ執着が起こらず
故に強烈な不幸せが起こることもないし、

もし思いが強過ぎて苦しかったとしても、
「自分が思っていたようにあるのではなかったのね。」と知れば、
その思いを手放して
軽くなれる。

わたし達の知覚全てに
実在の現れがあるので、
それを全て無くせば
知覚の制限も無くなり、
全てのものごとの全ての様相を直接知る
仏陀の智慧が得られるので、
「仏陀になるためにも空性(勝義諦)が必要」
という話もあるが、
ここでは割愛する。

長くなってしまったが、
今ここで幸せになるために世俗諦が必要。
更なる幸せを得るために勝義諦が必要。
ということで、
返答になったら良いな。

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