菩提心の賞賛《宝珠の灯》第70偈
70)欲望などの対処である不快などは、
根本から取り除くことはしないけれど、
最高の菩提心は、全ての対処へと
変化して、全ての所断に勝つ。
「所断」とは、捨て去られるもの。
煩悩など、対処法を修習することによって取り除かれる心の障り、「断滅されるところのもの」である。
主な煩悩には、欲望、怒り、愚痴などがある。
それらの対治(対処法)として、
欲望には、欲望の対象を不快なものであると考える、
怒りには、怒りの対象へ愛情を修する、
愚痴には、間違って捉えているものごとの正しいあり方を知る、縁起を知る、などがある。
しかし、欲望の対治は、怒りの対治にはならず、
怒りの対治は、愚痴の対治にはならないなど、
それぞれに対応する以外、
他の煩悩を断滅する対処にはならない。
何故かといえば、それらの対処は、
欲望などがどう考えるか、
その反対の心を同じ対象へ向けるだけで、
心に現れた対象の存在を、そのまま残しておくから。
例えば、Aさんに対する欲望の対処として、
欲望に反する「Aさんの不快さ」を考えたとすれば、
Aさんに対する欲望は治まったとしても、
Aさんに対する怒り(嫌悪)が起こりうる。
それ故に、それぞれのみに対応する対処は、
煩悩を根本から取り除くことはない。
菩提心には二つある。
皆のために仏陀の境地を目指そうという世俗の菩提心と、
その動機を経過して、空性を直覚で悟っている勝義の菩提心。
勝義の菩提心は、
欲望や、怒りや、愚痴の向かう対象そのものの、実在が無いと知っている。
対象の実在が無いから、
欲望や怒りは対象を無くして、
留まることができない。
最初の雪玉が無ければ、雪だるまは作れないように、
全ての煩悩、所断に同じことが起こる。
・・・という風に考えると、
どうだろうか。