2つのあり方
修行の道が
智慧と方便の2つに分けられるのは
ものごとのあり方が
2つあるからだ。
普通に我々に映っているあり方と
その究極のあり方。
仏教用語では
前者を「世俗のあり方」といい
後者を「勝義のあり方」という。
全てのものごとには
「世俗のあり方」と
「勝義のあり方」の
両方が揃っている。
太陽は空高くのぼり、輝いていて熱い。
これが太陽の世俗のあり方。
これを見ている時は
自分の知覚に映る太陽を
あるいは知覚に現れている太陽を、
見える通りに認識している。
この時の対象のあり方が
「世俗のあり方」だ。
それに対して、
「太陽ってこういう風に見えるけど、
本当にそうなの?」と、
意識への映り方、現れ方に
疑問を持って考察すると、
太陽の究極のあり方について
考察することになる。
で、結局、
「太陽」として我々に映る空の丸い光は
視覚に映るままに受け入れられて、
今までの情報の集積によって
意味と名前を結びつけられて、
「太陽」と呼ばれているのだと気づく。
あの丸い光の現れの方から
「太陽です〜」
と存在しているのではない
というのが、
太陽の究極のあり方。
それを「実在の欠如」という
絶対的否定(ネガティブ)の方から表現する言葉と
「縁起(さまざまな縁・条件によって起こる)」という
ポジティブな方から表現する言葉がある。
どんなものにも「そのもの」は無くて、
だからこそ何にでも変化し得る
ということだ。
これが
智慧と方便と
どう関係するのか?
お察しの通り
空性を悟る智慧は
ものごとの究極のあり方である
空性と結びつく。
空性を正しく知って、
瞑想を深めていくことで
空性と意識が不別のものになる。
菩提心などの方便は
我々に映る世界を
そのまま認識して働きかける
世俗のあり方と深く関わる。
最初は努めて利他行に励み
だんだん利他行が当たり前になり
最終的には自然にできるようになる
道である。
利他行には相手が要る。
なので方便は
他者のために行う修行であるという。
その結果として
仏陀になった暁には
他者に映って働きかけることができる
形ある身体・
色身(しきしん)を得ることになる。
空性を悟る智慧の結果は、
仏陀以外の者は直接知覚することができない
仏陀の意識と、意識の空性である
法身(ほっしん)だ。
智慧と方便の結果も
法身と色身の2つあるということ。
目に見えるものごとと
その究極のあり方。
全てのものにその2つがあると思うと、
見えるものへの見方も変わってくる。
思ってるように有るんじゃ無いのかも。
そう考えるだけで、
好き嫌い
なくなってきませんか?
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