他空派の宗論 15
第三項[同一か別か]
『解深密教』より、「行の界と勝義の性相は、同一と別から離れた定義をもち、同一や別そのものであると考える 者達は正しくない作意に入ったのである。」と説かれたように、二諦とは、同一本質と別本質の何れとも述べられることはない。同等を否定した別であると承認はするが、それも「本質は一つであるが反体が別である」という理解の仕方と僅かに異なる。
その二つが同一本質か別であると主張すれば、『浄慧意品』や『解深密教』より説かれた四つずつの正理によって批判される。
第四項[他に派生して説く]において、[勝義諦は智慧のみの対象であると示す][世俗諦は智慧の対象ではないと示す][そうではないが、不知の過失は無いと説く]の三より、
第一項[勝義諦は智慧のみの対象であると示す]勝義諦は智慧のみの対象であると知らしめる明らかな原典は、般若母への称賛より「それぞれに自らを知る智慧の享受する対象」や、
『解深密教』より、「まさしく勝義をご覧になるものの対象である。」や、「法界の本質であるものを悟る 等引した瑜伽行者が見る。」などと説かれたことによって、法性とは聖なる等引の享受する対象であると、強調して説かれた。
第二項[世俗諦は智慧の対象ではないと示す]
世俗の全ての誤った法(現象)は、そのように顕現境となり、聖なる智慧の享受する対象としての面からそれらを知るのではないと説かれたが、一般にそれらを全く知覚しないと承認したのではない。しかしそれも、『楞伽経』より、「習気によって錯乱した心は 意味(対象)としての現れがよく起こる。意味(対象)があるのではない、まさしく心であり、外界の意味(対象)を見ることは誤りである。」や、
『法性分別論』より、「それが現れれば法性は現れず、それが現れなければ法性が現れる。」や、『中観修次論』より、「聖者は錯誤をご覧にならず」など説かれたことによっている。
第三項[そうではないが、不知の過失は無いと説く]世俗諦が智慧に現れぬからといって、それを知覚せぬ過失はない。何故ならば、智慧に映らずにご存知になる方法があるからである。そうではないか。非常に長い時間で遮られた過去や未来などを全知の智慧が知覚するならば、それらの様相は、あるがままに現在進行形として現れるのではない認識面でご存知となる故である。例えば、夢で現れた映像を覚醒時に知るがごとくである。
[同一か別か]と考察されるのは
世俗諦と勝義諦である。
「行の界」とは、
ものごとが集まって働きをなす
世俗諦を表す。
それに対して「勝義の性相」とは、
究極のさがである様相で、
勝義諦を表す。
他空派は、
世俗諦と勝義諦を
本質が同じでもないし、
別でもないと説く。
世俗諦と勝義諦は
本質が同じではない。
勝義諦は究極のあり方という
本質をもって存在していることに対して
世俗諦は究極のあり方ではないし、
それ自体の本質も持ち合わせない。
世俗諦と勝義諦は
本質が別ではない。
本質が別であるなら
両方ともに本質がなければならない。
しかしながら、
世俗諦にはその本質がない。
故に、「本質として別」が成り立たない。
「本質は一つであるが反体が別である」とは、
自空論者が世俗諦と勝義諦の関係性を説く時の言葉である。
「反体」とは仏教用語で、
〇〇以外のものから反する体
ということ。
「りんご」という言葉であれば、
「りんご」は、りんご以外のものから反して
「りんご」という体を表す。
「本質は一つであるが反体が別である」
の意味を簡単にいうと、
「本質は同じだが名前が違う」
という意味である。
例えば「りんご」と「apple」のようなもの。
世俗諦と勝義諦は、
「本質は同じだが名前が違う」
という意味とは
僅かに異なる関係性をもつという。
自空論者も他空論者も
主張は同じ。
本質として
同一でもなく
別でもない。
同一であれば如何なる矛盾があるかといえば、
①壺の法性(空性)を直覚する凡夫(空性を直覚していない者)がいる矛盾
②その法性に対して欲望など煩悩が生じる矛盾
③その法性が色や形として成立している矛盾
④修行者が法性を瞑想することが無意味になる矛盾
上記、四の矛盾があげられる。
別本質であれば如何なる矛盾があるかといえば、
①壺の非実在が壺のあり方であることは矛盾する
②壺の非実在を悟ることで、壺に対する実体視の思い込みを断つことは矛盾する
③壺が、壺の実在を否定する基体であることは矛盾する
④仏陀の心に壺の非実在を悟る智慧と、壺の実体視が一緒に無いことは矛盾する
上記、四の矛盾があげられる。
因みに、これらの矛盾は波羅蜜の教科書に出てくる。
[他に派生して説く]での「等引」とは、
空性を直覚している瞑想のこと。
勝義諦、空性、法性には、
それを直接に悟る瞑想でしか
到達できない。
世俗諦は智慧の対象ではないと説くが、
まずその理由は、
世俗諦に含まれるものごとが
空性を直覚する智慧に現れないからである。
「顕現境」とは、
顕かに現れる対象(境)という意味で、
知覚に直接映る(現れる)対象をいう。
空性と不別(一元)の智慧に、
主客二元をともなって現れる世俗のものごとは映らない。
しかしながら、その智慧は、
世俗のものごとを全く知らぬのではないという。
何故なら、
太古の恐竜や
はるか未来の地球の様子も
全知の存在は現時点で知ることができるけれども、
太古は現在時として現れるのではなく
未来も現在時として現れなくとも
ご存知である故である。
という理由であるが、
正直にいえば、
どうやってご存知になるのか
はっきり記して欲しかった。