(第11回)身延山でころんだ。神社仏閣階段話
急勾配の階段の下から、280段以上先の遥か彼方の拝殿を眺めた時、ちょっと嫌な予感はしたのだ。だが、まさか神様仏様のお膝元であんな目に遭おうとは。
それは、甲府取材の合間に身延山久遠寺を訪れた時のことであった。せっかくの日蓮宗総本山、近くまで来たのにこのまま素通りでは寝覚めが悪いとばかりに寄り道を決意し、山奥の(身延山)久遠寺に分け入った。
時間は昼の2時過ぎ。前日締め切りの原稿が遅れ、ほとんど睡眠を取れないまま、重いカメラバッグを担ぐ取材だった。
その頃、私はダイエットをしていた。中年太りも危険水域に突入したので、ろくな運動もしないくせに、ちょっとばかり無理のある食事制限に勤しんでいた。さらによくないことに、当日、前の取材が長引き、タイミングが悪く昼食を取らずにいた。参拝を決意した時には猛烈にお腹が空いていた。ちょっと嫌な予感の理由は、以上のようなことが次々と重なっていったことだった。
私は、身延山久遠寺の287段の石段を登りきった。この石段を登りきると涅槃に達すると言われているらしいが、とにかくフラフラになりながら最初の踊り場のような場所にたどり着いた。
息を整えながら境内の中程へと進んだ。気分が悪くなり、目に入ったベンチに座り込んだ。まだ肩で息をしている。しだいに目の前が真っ白になり、そして突然視界が消えた。貧血を起こし、そのままベンチから地面へと前のめりに倒れた。境内の石つぶてに顔面を打ち付け、私はしばし涅槃へと渡った。
何分経ったのだろうか。わからないし、確かめようもない。ほんの数十秒なのかも知れないし、あるいはけっこうな時間が経過したのかもしれない。
気がついたときには、目に映る景色は地面スレスレの斜めフレーム。なんとなく鼻のあたりに手をやると、まだ乾いていない血糊でぬるっとした感触を感じた。
いかん、このままでは救急車を呼ばれてしまう。意識も戻ったし、顔面の血もたいしたことはない。へんに気を使われてここで誰かに救急車を呼ばれてしまうと、取材予定はおろか、複数入れ込んだアポイントもすべて台無しになる。そんなことをとっさに思い、なんとかがんばってベンチの上に這い戻り、そしてまた、ベンチの上で横になった。ぼーっとしている。そういえば顔面が痛い。まだ起き上がらないほうがいいな。そう思いながら30分ぐらいそのまま横になっていた。
詳細はこれ以上語る必要はないだろう。いまこうして原稿をしたためていられるのが、無事のなによりもの証拠だ。だが、ひとつだけ付け加えさせてもらうと、そんなところで勝手にぶっ倒れておいてなんだが、私がベンチに横になっていたそこそこの時間、声をかけてきた人は皆無であった。境内はひと気がないかというとそんなことはない。お揃いの白装束を着た団体の参拝客など、けっこうな人数がいた。宗教ってなんだろ、人と人との距離ってなんだろって、後で思った。
神社仏閣の階段は、なにゆえこうも急なのか。
もちろん、それは参拝をすること自体が修行なのだから。答えは簡単である。
元来、神社仏閣は山奥の修験場として、(下界から離れた)過酷な環境につくられることが多かった。だから、彼らの思想に触れ、先人の残した威光にあやかろうとするのなら同じ行動をしろというのは、ある意味筋が通っている。
階段を上るということは、「踏破する」という達成感もさることながら、足元を伺いながら頭を垂れ失礼のないように振る舞う、また霊験あらたかなるものとは「なかなか出会えない」という自戒の感覚を知る。その場所が山奥にあればあるほど、階段が急で長ければ長いほどご利益が大きい、そう思うのは、今も昔もいっしょなのである。
急勾配、長い階段で有名な神社仏閣をいくつか挙げてみる。
和歌山県新宮市の神倉神社(熊野速玉大社の摂社)の急階段は手すりもなくかなり危険だ。長さはそれほどでもないがまるで崖をよじ登るように参拝するさまは圧巻だ。
新宮市にある神倉神社の階段。あまりもの急勾配のためかなりビビる。
山形の宝珠山立石寺。そこはまさに山奥にそびえ立つように配置されたお堂、階段の段数は1015段、片道40分ほどの登りを覚悟しなければならない。この大高低差寺院は、1950年代のレジャーブームの折、下り経路に目をつけた寺が、交通機関(アトラクション)として巨大な滑り台を開設したが、高低差が大きくスピードがつきすぎ、参拝客の尻に火がついた(火傷)ことから廃止になったとの逸話が残されている。
世界遺産入りが待望される鳥取県の三宝山投入堂の参拝の険しさも有名である。それなりの服装と手続きでしか参拝できないため、まさに修行の一環だ。
香川県の金刀比羅宮、高尾山薬王院、前出の身延山久遠寺。参拝がたいへんな神社仏閣は全国にいくらでもある。
はたして、改善策は?
大観光時代の神社仏閣参拝。旅先でドジを踏み、私のような目に遭う人が増えないことを願うばかりである。
〜2017年12月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂
身延山久遠寺の「菩提梯」と呼ばれる287段の階段。急勾配が怖くて途中で休憩もしにくい。
身延山久遠寺は日蓮宗の総本山、広く山深い境内だがロープウエイや斜行エレベーターなどが配備されている(帰ってきてから知った)。
住所・山梨県南巨摩郡身延町身延3567
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