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(第6回)明治の情景が浮かぶ「無縁坂」を歩く
無縁坂。不忍池方面から東大医学部方面を望む。
この歌を最初に聞いた時に、なんて暗い歌なのだろうと思った。そして、いまはなんて素敵な歌なのだろうと思っている。この歌は、出会うたび、聞くたびに、人々にさまざまな思いを抱かせる。この歌の舞台になった『無縁坂』も、きっとまた、そんな場所なのだと思う。
東京・上野の不忍池の西側に「無縁坂」は実在する。なんとも情感のある名前である。歌手のさだまさし(当時グレープ)は、この無縁坂に触発され、ある物語を紡いだ。それがこの曲である。
「母がまだ若い頃僕の手をひいて、この坂を登るたび、いつもため息をついた」。
坂の多い長崎の街で育ったさだは、どこまでもつづいていきそうな坂を舞台に母子の間の深くゆるやかな感情を描き出した。
「忍ぶ不忍(しのばず)無縁坂 かみしめる様な ささやかな僕の母の人生」。
実際の無縁坂を目にしながらこの詞を書いたのかどうかはわからない。だが、さだの作り出したこの名曲は『精霊流し』に続く大ヒットを記録し(『無縁坂』のリリースは1975年)、東京のひとつの坂にすぎなかったこの坂のイメージを一気に全国区のものとしたのである。
余談だが、『精霊流し』『無縁坂』『縁切寺』という一連のヒットで、グレープの音楽は暗いというイメージがつきすぎてしまったらしい。さだは、グレープの解散コンサート(1976年)で、解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べたと言われている。
無縁坂の名前の由来は、坂の北側にあった「無縁寺」(現在は講安寺)である。瀟洒な低層マンションが立ち並ぶ坂の周辺だが、ひと気のない寺の入口がいまも印象深く見て取れる。
この坂は不忍池と東京大学医学部をつなぐ道である。
「岡田の日々の散歩は大抵道筋が決まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく」
これは、明治の文豪・森鴎外の小説『雁』に登場する、主人公の友人(岡田青年)の散歩風景である。
岡田は無縁坂の頂上付近にある東大医学部の学生。岡田に慕情を抱く女・お玉の住まいは無縁坂の中腹にあったとされた。
実際に界隈を歩いてみる。地下鉄の湯島駅から不忍池にたどり着き、踵を返すように斜め後方にそびえる「無縁坂」を登る。平日の昼下がり、通行人も少なく、近隣は閑静な雰囲気を漂わせている。無縁坂の南の側面は「旧岩崎邸庭園」に面している。静かに管理された広大な敷地が、この地域に自然豊かな緑と静寂を約束している。
旧岩崎邸庭園は、明治29年に、岩崎彌太郎の長男で三菱第三代社長、岩崎久彌の本邸として造られた屋敷と広大な庭園である。当時の助っ人西洋人、ジョサイア・コンドルによって設計された最先端の洋館は、いまも貴重な財産としてこの地に残されている。敷地全体を眺めると、幕末から明治期にかけての雰囲気が色濃く残り、2010年NHK大河ドラマ『龍馬伝』のロケでも使用された。
無縁坂を擁するこの界隈は、思想、財、学問、国家観などの凝縮された、日本の粋を集めた場所だ。坂の起伏はさまざまな人生を謳い、風にそよぐ緑は明治大正昭和の時を超える。
「そういうことってたしかにある」とは詞中の言葉。
この坂を見てふとそう思った。
〜2018年3月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂
(敬称略)
無縁坂の名前の由来になった講安寺。