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(第27回)千家和也作品のなかで、私がいちばん好きなものは、百恵ちゃんが歌った『湖の決心』(作曲・都倉俊一)である。


 先日、作詞家の千家和也さんが亡くなった(2019年)。若い頃のヒットメーカーぶりは有名だが、あまりマスコミにご出演なさらないかただったらしく、その後の情報は多くない。だが、彼の残した作品は(私のような)多くの少年の心を揺さぶり、ヒット曲とともに歴史に刻まれている。

 千家和也作品のなかで、私がいちばん好きなものは、山口百恵が歌った『湖の決心』(作曲・都倉俊一)である。私が小学生の頃の歌であるが、好きすぎてたまに酔っ払ってカラオケでがなったりすると、かならずひかれる。しっとりとしたいい歌である。だが、そういっちゃなんだが、いまの時代にはそぐわない「男尊女卑」っぷり激しい「歌詞運び」、湖を前に心情を吐露するポエジーな感性、それらをおじさんがうっとりしながら歌うという嫌悪感で、場がざわつくのである。

 私のカラオケのことはどうでもいい。問題は、ひとはなぜ湖を前にすると心情を吐露するかということである。川端康成の作品に『みずうみ』というのがある。「美しい女を見ると、憑かれたようにあとをつける一人の男」を主人公に、「幽艷な非現実の世界」が展開されていく幻想的作品で、大作家の作品のなかでもかなり実験的な要素の強い作品だ。その作中で「みずうみ(元原稿はみづうみ)」は、登場人物のさまざまな心情を投影する鏡のようなかたちで存在する。

 「少女のあの黒い目は愛にうるんでかがやいていたのかと、銀平は気がついた。とつぜんのおどろきに頭がしびれて、少女の目が黒いみずうみのように思えて来た。その清らかな目のなかで泳ぎたい、その黒いみずうみに裸で泳ぎたいという、奇妙な憧憬と絶望とを銀平はいっしょに感じた」(川端康成『みずうみ』新潮文庫)

 わからないひとにはさっぱりわからないし、わかるひとにはぐっとくるほどにわかる。そんな「吐露」だ。

 私は個人的には、湖はものすごく怖い。湖面の清らかさや静謐さに思いを馳せようとするが、閉鎖性や行き場のない澱のようなものに意識が向かい、どうしても身が縮んでしまう。

 流れなき水というのはある種特殊な状態である。湖、沼、池、水たまり。いろいろなスケールや言い方があるが、「安定」と「よどみ」の印象が行ったり来たりする。人間の身体の60パーセントは水分で、身体のなかに大きな沼のようなものがあり、中年以降の加齢臭というのはその沼の水が腐るからだという比喩を聞いた。これはあまりにも悲しくて、思わずジャクソン・ブラウンの初期の名作「悲しみの泉(Fountain Of Sorrow)」のレコードをかけたくなった。

 湖は、ひとをワクワクさせるのか、それとも哀愁漂う心情吐露の舞台へと誘うのか。このあたりの方向性が、湖の観光地としての難しさでありおもしろさなのかもしれない。

 いくつか例を挙げてみる。蓼科の人造湖である「女神湖」は、その湖の存在だけで、バブル期の垢抜けたレジャー施設をつくっていた。相模湖は、いまではさびしそうな湖面なれど、子どもたちをわくわくさせるピクニックランドとして、いまだ現役である。そして最近は、埼玉の宮沢湖。湖畔に展開される「ムーミンの国」が絶賛売出し中である。

 雄大な海の景色、開放感あふれるビーチもいいが、「湖畔」という響きは格別だ。湖にはどちらかというと上流階級的な風合いもあり、そういえば黒田清輝や東山魁夷など、絵画のテーマでも湖畔は頻繁に描かれている。
 人造のダム湖、天然の湖、小さな湖畔、巨大な湖岸。阿寒湖、摩周湖、琵琶湖、サロマ湖、十和田湖、富士五湖の各湖。挙げだしたらキリがない。思いつくだけでも、さまざまな景色や物語が浮かぶ。

 観光地としての湖は、まだまだ発展途上のような気がする。華麗なるおとなのための湖開発。ぜひ、スタートしてもらいたい。

〜2019年9月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂

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長野県蓼科にある女神湖は、農業につくられた人造湖である。


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なつかしさの漂う、相模湖のボート乗り場。

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